おもろい話やで | 日記
首都メキシコシティ

上空から見ると、どこか東京に似ている。

一つは、広いということ。
ヨーロッパの都市は狭い。
電車で20分もすると景色は緑色に変化するが、
メキシコシティは、ビルの色の面積がやけに広い。
人口も800万~900万と、東京の1,000万に近い大都市だ。

そして、霞んでいること。
おそらく、公害によるものである。
東京の場合、排ガス規制などが厳しく、
世界のどの大都市よりは空気がきれいだと思う。
ヨーロッパの都市の空気はくさいが、
それよりも車の台数が多い東京のほうがにおわない。

しかし、東京の上空は霞んでいるというイメージがある。


そして、メキシコシティ国際空港に降りる。

荷物を受け取る所では、隅で小さな火の手が上がっている。
が、何のサイレンも放送もない。
周りも慌てたふうではなく、
空港職員がすぐにかけつけて来るというわけでもない。
私のような観光客(私はあくまで出張です)が、
こんなんでいいのか、という表情でいる程度。

私も荷物を受け取ると、その場をゆっくりと立ち去る。
その後どうなったか知らない。
しかし、空港が火事になったというニュースは聞かなかったので、
大事には至らなかったのだろう。


街に出るとコンビニが目立つ。
ヨーロッパでは見ない、でも利用したかった施設。
何か、懐かしかった。

夜は夜で、ホテルの外で銃声が鳴り響いていた。

メキシコシティには、日本人の知人が、女性一人と男性一人とがいた。
女性の知人とは、彼女の運転する車で高級なメキシコ料理店に行くことに。
車が信号で止まろうものならば、ストリートチルドレンが車を囲む。
中には、2~3人で曲芸を始める子どもも。
これも、ヨーロッパでは見られなかった光景だ。

ある子どもが勝手に車の窓を拭こうとすると、
彼女は手で追い払うような仕草をする。
お金をやると、きりがないという。
ちなみに、彼女はユニセフに勤めていた。


料理も食べ終わり、お会計を済ませ、店を出ようとする。
すると、彼女が私を引っ張って
『ちょっと、猪野君!』
と、いう。

一瞬、ブダペストの彼女のように、自宅に誘われるのかと思いきや、
声のトーンが少し穏やかでない。
『レディーファーストよ!』

後ろを振り向くと、確かに他のお客さんが私をにらんでいる。

女性を最初にお店から出さなければならない、
そんなことを指摘されたのは、これが最初で、おそらく最後であろう。
でも、気を付けたい。


男性知人には、自宅に招かれ、奥様が手料理でふるまってくださった。
魚を丸ごと一匹調理した豪勢なお料理。
おもてなしの気持ちが十二分に伝わってきた。

奥様はフィリピンの方で、日本語が話せないこともあり、
われわれの会話には入らず、別室に。
英語でも会話はできたはずだから、多分気を遣ってくださったのだろう。
彼を通じて、この感謝の気持ちは伝わったとは思うのだが。

テレビでは、日本のアニメ ”キャプテン翼”が放映されていた。
登場人物の名前はヒスパニック系で、
彼らがしゃべる言葉はもちろんスペイン語だが、
”南葛中”という文字もみえる。
現地の子どもたちは、この文字をどう思ってみているのだろうか?
おそらく、意識さえしていないか…

そういえば、当時から、
たくさんの日本のアニメがフランスでも放映されていた。
”セーラームーン”や ”ドラゴンボール”など、
これらの登場人物の髪の毛が金色だったり、赤かったり、緑色だったりと、
カラフルだったのに改めて気がついた。
だから、当時のフランスの子どもたちは、
どれだけ日本のアニメと気がついていたか。

当時は、ディズニーアニメの ”ライオンキング”が世界中で流行っていたので、
フランスでも、あの手塚治虫大先生原作のアニメ ”ジャングル大帝”も放映されていた。
もちろん、レオもフランス語でしゃべる。

私は、OECD職員をはじめ周りの外人に、
”ジャングル大帝”が先で、”ライオンキング”が後からできたんだ、
とよく言ってまわっていた。
そんなものは見てない、という反応が一番多かったが、
中には、案の定、”ジャングル大帝”は、”ライオンキング”のパクリだ
と勘違いしている輩もいた。
だから、私は、手塚大先生の名誉のためにも一生懸命だった。


話が完全にメキシコからずれてしまったが、
メキシコといえばプロレス。

父親の影響で小学生のころからプロレスを見ていた私は、
ここメキシコシティでも、プロレスを見ることに。
(私がプロレスをみるようになったきっかけは、1/29付のブログをご参照)

会場につくも、試合開始まで一時間以上ある。
わら半紙でできた今にもちぎれそうな指定席券を購入する。

そして、一時間が経ち、会場に。
私の席は、すでに他の誰かが座っていた。
というより、じっと座っている者は少なく、
もはやどこが誰の席という感じではなかった。

さすがは、メキシコ、
ほとんどがミスマスカラスのような覆面レスラーで、
飛んだり跳ねたりする。
これをルチャリブレという。

メインは、ベルトがかかっていることもあり、真剣勝負にみえたが、
それ以外の試合は、明らかにショーだった。

試合後のファンサービスもすごい。
試合が終わるたびに、
子どもたちがレスラーのところにかけよりサインを求める。
そして、レスラーも丁寧にこたえ、サインをする。
日本と比べ観客数が少ないので、できることなのかもしれない。

いつくかの試合をみていて、気がついたことが一つ。
悪役レスラーには、シカゴOOOといったように、
アメリカを連想させるリングネームが多く、
善玉レスラーには、リンゴOOOといった、
日本などを連想させるものが多かった。

あの男性知人によると、彼自身はプロレスには興味なかったのだが、
政治的にはメキシコはアメリカ合衆国にベッタリではあるものの、
庶民は、アメリカ合衆国のことが大嫌いらしい。
19世紀、カリフォルニア、ネバタ、ユタ、テキサスなど国土の大半を
アメリカ合衆国に奪われた歴史があるからだ、ということ。
日韓、日中、英仏など近隣諸国どうし仲が悪いのは、どこも同じか…


すみません。
たしかに私は、出張で訪れていました。




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ハンガリーの首都ブダペスト。

ここでの仕事上の強烈な思い出はない。

聴講していた方から、
日本人というだけで柔術の達人と思われたことくらい。

それは、パリでも日本人というだけで
柔道が強いと思われたことと似ている。

上智大学の陸上部には、時おり、外国人も入部することがある。
他大学のように長距離種目ではなく、
短距離種目にアフリカ系の学生が入部したことがあった。
日本人と比べればがたいもよく、
対抗戦の相手大学もビビッていた。
が、彼、実は遅かった。

どちらとも、一種の偏見か。


ブダペストのエスカレーターは日本のと比べ異常に速い。
そういえば、小学校1,2年生のとき、
デパートで、下りのエスカレーターがこわくて乗れなく、泣いていた。
父は、私を甘やかさないつもりで、ほったらかし。
母は、その場にいなかったと思う。

そこに、突如、見知らぬご婦人がやってきて、
『おばちゃんも、こわいのよね。』
と、おっしゃって、私を抱っこし、
”いっしょに”エスカレーターを下りてくださったことを思い出した。


また、ハンガリーは、日本と同じように温泉大国であり、
私も、ブダペストで温泉に入った。
と、いっても、水着着用。
浴場というよりも、温水プールに入っているような感じであった。
中で、垢すりマッサージも受ける。


といった、つまらない話より、
みなさんが思わず興味を持ってしまうようなお話しを一つ。

このブダペストには、知人が暮らしていた。
その知人は、当時二十代の日本人女性で独身、彼氏なし。

出張でブダペストに行くことが決まり、
現地で久しぶりに会おうと彼女に連絡。

そして、とある日曜日、ブダペストでお茶を飲んだあと、
まだ日は落ちていない時間だったので、これからどうしようかという話に。

すると、彼女のほうから

『家に来ない?』

と誘われる。
考えもしなかった。
彼女とは完全に友達関係にあったからだ。

私は一瞬迷うも、
彼女から誘ったからまーいいか、
くらいの感覚で彼女の家におじゃまする。
もちろん、彼女は一人暮らし。

やはり、こういう時、勘が働くのだろう。
日本にいる彼女のお母様から電話があった。

彼女は口に人差し指をあて、
私も息をひそめる。

だんだん、彼女が女性であることに気がつきはじめる。

限界は、トイレを借りたとき。
トイレの横に洗濯機があったのだが、
そこに使用済みの女性用の下着が山積みに…

これは、絶対にオオカミになってしまう。

そこで、明日早朝ジョギングをしなければならないからといって、
ハンガリー語のできない私は、タクシーを呼んでもらうことに。

間違いをおこして彼女との友達関係を壊したくなかったし、
出張できていたのに講義の時間に遅刻したり、
寝不足状態をみんなの前で披露することはできなかった。

本当です。



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スロバキア

ここでの思い出は、聴講した職員の中に、
我々が話をしている最中にも新聞を読んでいる者がいたこと。

他のOECD職員ら講師陣も、不快な思いをしていたことは確か。
しかし、私も含め、誰も注意しない。

そこで、私の頭の中で、発想の転換が起きた。

  聴くほうに責任はない。
  聴く者に興味をもってもらえるような
  そんな話ができない側にも責任がある。

この発想が自然にわいてきたのか、
他の講師陣の話から出てきたのか、今となっては思い出せない。
この時点から、私は、
聴く者の興味を惹くことができるような話し方をしようと心がけるようにした。

他の講師陣の中にも、そうしようという雰囲気が生まれた。

そうしたら、その職員は新聞を読むのをやめ、
積極的に質問をするまでになった。

学校で生徒が授業中居眠りをすると、
生徒のほうが一方的に悪いようにいわれる。
しかし、生徒に居眠りをされるような話しかできない、
そんな教師にも責任があるのではないか。

おそらく予備校教師にとっては常識。


日本のあちこちの成人式で、新成人が大暴れ、
そんなことがニュースになった時期もあったが、
そうした時期でも、著名人が式で話をするときは暴れない。

著名人だから、ということもあるが、
普通のお偉いさんよりは、著名人や芸能人のほうが場の空気をよむことに長けている。
聴く者にも興味をもってもらえるような話をしよう、
そんなことに神経を集中させることができるのではないか。

芸人にとっては、まさにそれが命。

そして、場の空気を読めない筆頭が政治家。


もちろん、聴く者にもマナーというものは求められる。
話の内容によっては、特に学術的なもののように、
おもしろおかしく話せないテーマもある。
しかし、学術的なものでも、
なるべく分かりやすく興味を惹くように話をする術というのもあるはず。


少なくとも、聴く者に全責任があるような発想は止めよう、
そう気づかさせてくれた、スロバキアの新聞おじさんだった。




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今回は、ポーランドを訪れたときのお話しをさせていただきたい。

ポーランドと一口にいっても、首都ワルシャワ、
アウシュヴィッツ強制収容所から比較的近いカトヴィツェ、
そして、あと町名を忘れてしまったが、
日本人は絶対来たことがないであろうと思われる山奥の田舎町も訪れた。

そこは、ワルシャワから車で数時間もかけて行った所だが、
こんなところで、国際課税の話をしてどうするの?
と思ってしまうような所であった。

今でこそ中華料理屋というと世界中のどこにでもありそうだが、
当時、そこの町にはなかった。
だから、現地の職員の方々は漢字を初めて見たのだろうか?
非常に珍しがられていた。

私は、自己紹介のとき、つかみとして、
自分の名前を漢字で説明することにしていた。

すなわち、漢字一文字一文字に意味があって、
私の場合、”INO”というのは、”猪野”と書くのだが、
”猪”はイノシシとい意味であり、
”野”は野原という意味であり、
したがって、私の祖先は、
野原でイノシシを追っかけていたにちがいない、と。

すると、休憩時間になると、聴講されていたみなさんが
メモ用紙をもって私のところにやってくる。
漢字で名前を書いてくれと。
ちょっとした芸能人気取りだった。

中には、聴講された方ご自身の名前を漢字で書いてくれと
お願いされることもあったが、
”夜露死苦”とか、書くわけにもいかなかったので、
他の日本語で、と説明した上で、カタカナで書かせてもらった。
それでも、非常に喜んでくださった。


私は、当時、ヨーロッパ中のマラソン大会に出場していたので、
こうした出張時にも、朝のジョギングは欠かさなかった。
ジョギング中、現地の方々にも、アジア人が珍しいためか、
よく、声をかけていただいた。

他の国では、中国人と間違われることが多いのだが、
ここポーランドでは、まずベトナム人と勘違いされた。
これは、旧東ドイツに出稼ぎに来たものの、
同国の入管行政の厳格化にともない、
ポーランドに入国したベトナム人などが
たくさんいたことと関係があるのかもしれない、
ということは、1/5付と2/2付のブログでも述べさせていただいた。

ワルシャワで現地の若者に囲まれたヤバい話も、
これらのブログをご覧いただきたい。


ポーランドの人は、日本のことをどれだけご存知なのだろうかと思い、
お会いした現地の職員の方々に、
知っている日本の都市をあげていただくようにしていた。

一番ご存知だったのは、もちろん首都東京。
二番目は、大阪ではなく、広島、そして三番目が長崎。
四番目にようやく大阪か、と思いきや、札幌である。
なぜなら、昔(1972年)、冬季オリンピックがあったからである。

70メートル級ジャンプで、
笠谷選手ら日本人がワン、ツー、スリーフィニッシュは、有名。
ただ、ポーランドの方たちにとって印象が残っているのは、そこではない。

90メートル級ジャンプの金メダリストを覚えてますか?
そう、そのメダリストこそ、ポーランドの若者だったからである。

たしかに、我々も冬季オリンピックの開催地は覚えていることが多い。
ちなみに、当時は、長野オリンピックはまだ開催されていなかった。

結局、大阪は何番目だったか?
残念ながら、ご存知の方はほとんどいらっしゃらなかった。


夜が大変だった。
まず、踊りというか、社交ダンスである。
日本では、社交ダンスは非日常的であるが、
こちらというか、西洋社会では当たり前なのか、
税務職員だというのに、みなさんダンスがうまい。
いっしょに来ていた他のOECD職員まで…

要は、踊れないのは私だけであった。
ふくよかなご婦人が、
私が教えてあげる、とばかりにいっしょに踊ってくださる。

本当は、通訳の綺麗なお姉さんと踊りたかった…

なお、この後、ある男性が、このお姉さんの部屋に入っていくのを
私は目撃することになる。

さらに、なお、アンケートで私の英語にダメ出しをしたのは、
このお姉さんではなく、別のところの通訳さんである。
(詳細は、1/16付のブログ ”結果がすべて”を参照されたい。)


別の夜であるが、
みなさんとチェスをする。
私は、ルールを知らないので、
教わりながらチェスをしていたのだが、
ウオッカもすすめられ、飲む。
歓迎の気持ちが、言葉が通じなくとも十二分に伝わってきたので、
断りきれずに飲む。
飲めない私は、もちろん、チェスをしながら倒れる。

男女一組の職員が介抱してくださり、
ソファーの上に乗っけてもらったのは覚えている。
そして、私が倒れている目の前で、
この二人は、なななんと、熱い熱いキスをかわし始める。

  こ、こいつら、こんなところで、何てことしてやがる!

と思いつつも気を失う。

ポーランドの夜は何とも不らちだ。

気がついたときは、ベッドの上。
まさに、アニメ ”ヱヴァンゲリオン”第弐話
”見知らぬ、天井”
時期的にも、本当にこれが放映された頃だった。


でも、みなさん、ポーランドの方たちを誤解しないでくださいね。
あくまで、私の個人的な体験をつづっただけですから。




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OECDでの仕事の一つが、
東欧諸国や途上国を訪問し、
税の仕組みや実務などを伝えることであり、
その際は、講師陣として、
OECD職員数名と加盟国の税務職員とでチームを組む
ということは、先のブログでも述べた。

このチームメンバー同士で
ちょっとした小競り合いがある。

各講師に話をするテーマと時間が割り当てられるのだが、
自分のパートで話をしだしたら止まらないというのが常、
後には他の講師が控えているとか、
自分に割り当てられた時間が何時までとか、
そういうことをあまり気にしない。

特に、当時の自分のように、OECDに勤めたばかりの職員に
そうした傾向がうかがえた。

私が、休憩時間や夜に、もっと時間を守ってくれ、といっても、逆に、
日本の青色申告制度の話はどうでもいい、
お前のしゃべる内容を減らせ、
と言われてしまう始末。
ちなみに、こうした職員とも、普段は非常に仲がいい。


他の加盟国の税務職員にも、したたかな者がいる。

OECD全体の予算というか、加盟各国の拠出額は、
それぞれの経済規模に合わせて決まっており、
日本は、米国に次いで二番目である。

その他、特別会計的なものがあり、
各国が特定のプログラムに自発的に拠出する例がある。
東欧諸国や途上国に税の仕組みや実務などを伝える
というこのプログラムについては、日本が最大の拠出国である。

にもかかわらず、他の加盟国の税務職員は、
聴講されている地元職員に、
自国がこのプログラムに拠出しているということを、
しっかりアピールしてくる。

今の自分だったら、
日本が最大の拠出国であることをアピールしたであろうが、
当時のうぶな私は、何かいやらしい感じがして、
よう、言わなかった。

私が、当時、観光でエジプトの首都カイロを訪れたときである。
街が非常にきれいだったのだが、それは、ちょうど
当時のフランスのシラク大統領が、
カイロを訪れていたかららしい。

そして、当時のシラク大統領は、訪問した際の演説で、
フランスは、カイロの地下鉄建設に
更なるODA(政府開発援助)を拠出する用意がある、
とぶちまけ、カイロ市民から拍手喝さいを受ける。

なぜなら、車の排気ガスなどで大気汚染が深刻化しているカイロでは、
地下鉄のような公共交通機関の建設が待ち望まれていたからである。

日本はというと、オペラハウスをODA予算でおっ建てたことが、
建物の名称や用途について政府間で問題になったこともあり、
当時のマスコミでもちょっとした話題にはなっていた。

エジプト政府の要請で建てられたということだが、
一般のカイロ市民の方がどれだけ
日本のODA予算で建てられたことをご存知なのか、
どれだけ感謝をされているのであろうか。
こうしたことを意識するのが、同じODA予算を使うにしても、
重要になってくると思う。

日本もカイロの地下鉄建設にODAを拠出してきたようだが、
どれだけのカイロ市民がご存知で、
どれだけ日本に感謝をされているのだろうか?


そんなことを、欧米人は、個人レベルから意識している、
そんなことを、この仕事を通じて実感させられた。

と、ステレオタイプ的にくくるのはよくないか…



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OECDでの私の仕事の一つが、
市場経済に移行した東欧諸国や途上国に訪れて、
西側諸国の税の仕組みや実務などを伝えることであったことは、
先のブログでも述べた。

通常、講師陣として、特定のOECD職員がリーダーとなり、
他の職員と、あと、加盟国の税務職員とでチームを組む。

私は、OECDに勤める8か月前、日本の税務職員という立場で
モンゴルの首都ウランバートルで、OECD職員らと合流したことがあった。
モンゴルも市場経済に合わせた税制が確立したばかりで、
私は、現地の税務職員の方々に
税務調査や徴収の話をさせていただいた。

みなさんに、秋葉原で買った超薄型の携帯用の計算機を
お土産としてお渡ししたが、あまり嬉しそうではなかった。
そんな物は既に持っている、ということか?

そのときは、
イギリス人である当時のOECDの課長も参加されていたのだが、
実は、私がOECDでもこの仕事をやっていけるだけの力があるか、
その課長に試されていたらしい。


成田から北京まではJALだったが、
そこからウランバートルまではアエロフロート。
パイロットはロシアの軍人出身者だから腕は確かだ、とは聞いていたが
あれだけ機体が揺れると、さすがにビビッてしまう。

しばらくすると、砂漠が広がり始め、
やがて、何本かの煙の筋が見えてきた。
ウランバートルというのが砂漠のすみにあるというのがよく分かる。


私が滞在中、モンゴルでも所得税の確定申告が始まる
というニュースが流れた。
遊牧民の課税所得をどうやって把握するんだろう、
と不思議に思ったが、家畜の頭数で決まるようである。

また、滞在中、当時のジャスライ首相を表敬訪問する機会があった。
それより先に、私が日本の徴収率について
現地の職員に伝えていたところ、
首相がその情報を仕入られたのであろう。
私に対し、モンゴルでは税の徴収がうまくいっていないので、是非、
日本での徴収のノウハウを教えてもらいたい旨おっしゃってくださった。
当時のOECDの課長も、
日本の徴収率は高いから、いい話だと場を盛り上げてくれる。

こういう時は、自分には権限がないので本国に持ち帰って検討します、
とお茶を濁すのが定石であるが、
調子をこいた私は、分かりましたと答えてしまった。

帰り間際、首相の写真を一枚撮らせていただこうとしたら、
カナダ人職員から、横顔を撮ってはダメだと、止められた。
そういえば、皇室の方々の横顔の写真を撮ってはいけない
と聞いたことがあるような…?

後日、何故か私だけがモンゴル国家税務当局の某部長に呼ばれ、
実は、同じ肌の色をした日本人から直接
いろいろなノウハウを教わりたい旨打ち明けられた。


今でこそ、モンゴル人力士が日本の大相撲を席巻しているが、
当時のモンゴルではあまり知られていなかった。
私が相撲のことを紹介し、曙という外国人力士も活躍している
という話をすると、モンゴルにも相撲があるという話をうかがった。
隔世の感である。

当時は、灰色のコンクリートむき出し感の建物が目につき、
泊まったホテルも決して立派なものとはいえなかった。
エレベーターが途中の階で突然止まることも珍しくなく、
シャワーのお湯もいつ出るか分からなかった。

食べ物は干した肉が多く、緑黄色野菜を食べた記憶がない。
昼間から馬乳酒をいただいたが、
私の口にも他のOECD職員の口にも合わず、
翌日からは、普通のコーヒーをいただいた。


私だけが土曜朝の飛行機のチケットを準備していたので、
他の職員の方々は
『さすが、日本人は用意周到だな。』
と言い残し、金曜の飛行機で帰路についた。

その後、派手なチベット仏教寺院を訪れ、
その夜は、当時、私は二十代だったということもあり、
現地の職員の方にウランバートルのディスコに連れて行ってもらった。
お酒を飲めない私は、
そこでもファンタオレンジを飲んで踊っていた。



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私は、二年間、OECD(経済協力開発機構)という
国際機関に勤めていたが、
今回は、そこで経験したことをご紹介。

そもそもOECDの前身は、OEEC(欧州経済協力機構)という組織。
第二次大戦後、ヨーロッパも戦場になったわけであるから、
経済も疲弊しきっていた。

そこで、ほとんど無傷であったアメリカの当時の国務長官マーシャルが、
これで復興せ~い、といって、大枚をはたいたのである。
これがマーシャルプランといわれたものだが、
その受入れ機関がOEECである。

そして、ヨーロッパも見事に復興したわけであるから、
もうOEECはいらなくなったはずである。
しかし、どこの国、どこの時代でも同じなのか、
いったん作った組織はなかなかつぶせないようである。

そこで、欧米先進諸国が経済や貿易のことを話し合う機関に
改組してしまおうということで、
1961年、アメリカとカナダも加わって、
OECDができたわけである。

そして、日本が加盟したのが1964年。
その後、オーストラリアとニュージーランドが
1970年代に加盟し、しばらく加盟24か国の時代が続いた。

が、1990年代初頭、ソ連が崩壊し、東西ドイツが統一した後、
市場経済に移行したチェコ、ハンガリー、ポーランドといった東欧諸国のほか、
メキシコ、そして日本以来のアジアの国、韓国が1990年代に加盟した。

そして、2000年にスロバキア、2010年にはイスラエルなど四か国が加盟し、
現在は、34か国までになっている。


私が勤務していたのは、1994年から1996年までの2年間だったが、
その頃は、メキシコ、ポーランド、韓国などが加盟審査を受けていた。

メキシコの審査は、アメリカの露骨な後押しもあり、スムーズにいく。
ポーランドなどヨーロッパ諸国の審査も、スムーズにいく。
しかし、韓国の審査だけは、いろんな規制が残っているとして、
難くせをつけられ、スムーズにいかない。
審査の仕方が公平でないように見えた。

それでも、韓国は、頑として日本を頼ろうとはしなかったらしい。
結果的に、韓国も、ポーランドなどの東欧諸国と同じ1996年に加盟したのだが。


私が勤めていたとき、韓国はオブザーバーという立場ではあったが、
韓国人職員もいた。
同じアジア人ということもあり、
他の課の韓国人職員とも仲良くなった。

お互い、カタカナ発音の英語だからコミュニケーションもしやすい。
英語でうまく表現できなくとも、漢字で意思疎通可能である。
例えば、彼が英語で何を話しているのか分からなかったとき、
漢字で、”森林浴”と書いてくれた。

ただ、普段、そんな仲のよい韓国人も領土問題や歴史問題になると熱くなる。
詳細は忘れてしまったが、日韓で竹島問題が生じた翌日の朝、
いつものように ”Goood Morning”と挨拶したとたん、
彼にいきなり胸ぐらをつかまれ、どなられた。

『なんで、お前の国は、おれの国に
 いつも迷惑をかけるようなことをするんだ!』

これには、本当に驚いた。

私の考えるところの
彼がこれだけ熱くなった背景については、
1月5日付のブログ
”黄色が黄色をやっちゃったから?”
をご覧いただきたい。

なお、OECD職員は、日本人と韓国人以外は、みんな欧米人だった。
だからか、ハングル語のFAXが、よく私の机の上に置いてあった。


あと、韓国人以外のOECD職員から、というか一般的によく言われるのは、
日本は小さいということ。

しかし、みなさん、
ドイツを小さいといいますか?
日本の面積は、東西統一ドイツより広いのです。


経済規模は世界3位、人口は1億2千万人以上。
日本が小さいといわれる要素はありません。
ただ、国土の約7割が森林なので、住めるところが少ない
という意味では、”狭い”とはいえるかもしれません。


ところで、私は、OECDで具体的に何をしていたかというと、
一つは、移転価格という国際課税についてのガイドライン作りだった。
OECDのガイドラインは、加盟国に法的拘束力をもつわけではないが、
”国際”課税という以上、加盟国の法制度がバラバラになるのもまずいので、
各国に、ある程度、このガイドラインに沿ったものにしてもらう必要がある。

課長代理に相当するアメリカ人女性弁護士を頭に、
ドイツ人と私との三人のチームで行っていた。
各国代表から出された案やコメントを参考に、われわれがまとめの作業をする。
実際の会議でも、このボスが司会進行をしていた。
複数の国の代表から各々の案が提案された後、その場で折衷案を提案する、
まさにネイティブならではの技。

だからであろうか、OECD職員でも、課長といった実務的に重要なポストには、
英米人が就くことが多い。
サンドイッチに例えれば、はさんである主役の ”中身”である。
日本人はというと、
平職員か、または、金は出しているので、局長級に多く、
まさにサンドイッチの ”食パン”状態だった。


私は英語の文書力を上げようと、OECDレポートを参考にしていたが、
ネイティブの職員の方が次のようなことをいってくれた。
すなわち、日本のみならずドイツやフランスなどの欧州諸国も含め、
ノンネイティブの国の英文を本当は添削したい、と。
ただ、それをすると角が立つので、控えているんだと。

私の英文は、よくズタズタにされたが…

それに、欧米人は Yes,No がはっきりしていて、
日本人はあいまいであることが多い、とよくいわれているが、
OECDレポートに限っていえば、そんなことはない。
そこはやはり公的な文書であり、
各国の案を折衷させたものだからであろうか、
"wouid" とか "might"といった助動詞が多用され、
表現が非常にあいまいで、
結局、何がいいたいのか分からないところも多かった。


私のOECDでのもう一つの仕事が、
ソ連崩壊や東西ドイツ統一といった時代を背景に、
市場経済に移行した東欧諸国や途上国に訪れて、
西側諸国の税の仕組みや実務などを伝えることであった。

私の場合、ポーランド、ハンガリー、スロバキア、
そして、当時、加盟審査中の韓国とメキシコに訪れた。

そのときのお話しは、次回以降にさせていただきたい。



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おもろい話やで | 日記
この前のブログでは、
少しだけ下品なお話しを披露してまったので、
今回は、マジメな実話を。


みなさんの中にも、
ヨーロッパの人たち、特に南のほうの人たちは、
駐車をするとき、一台分のスペースがなくとも、
前後の車にぶつけながらスペースをつくってからとめる、
そんな話を聞いたことがある方も多いと思います。

私も実際に目にしたことがあり、
そして、パリ駐在の日本人の方からは、
こんな話まで聞いたことがあります。

ある日、運転をしていたら、
フランス人が運転する車に
後方からぶつけられたと、
そして、その日本人の方もフランス人も
車から降りましたと。

そして、そのフランス人は、
車を道路の脇に寄せろ、という。

すると、その日本人の方が自分の車を脇に寄せるやいなや、
そのマダムは、
『ほら、ちゃんと動くじゃない。』
と、のたまわって逃げようとしたと。

確かに、パリの街中では、
バンパーや車体がへこんだ車が何台もバンバン走っており、
車体は身を守るもので、車は走れさえすればいい、
そんな発想が強いようではあるが…

さすが、というほかない。

靴を買って、箱を開けたら、
両方とも右側の靴が入っていたので、
お店に苦情をいって突き返したら、
『買ったときに箱を開けて確認しなかったお前が悪い。』
と、いわれたという話も聞いたことがある。

日本人も簡単に謝ってはいけない、とはいわれているが、
その兼ね合いがなかなか難しそうである。


自己責任という話で思い出したのが、
夏の南仏を走る列車。

みなさん、”世界の車窓から”かなんかの
のどかな風景をイメージしてません?

あの列車、そんな生易しいものではないんです。
少なくとも私が実際に乗った列車は。

ヨーロッパのほうは気候が乾燥しているので、
真夏でも日本ほどは不快感がない。
だから、列車につけても、建物につけても、
冷房施設を見るのはまれであった。

そして、私の乗った南仏列車にも冷房がない。
でも、真夏なので、暑いものは暑い。
だから、窓も全開。
ここまでは、一昔前の日本と同じ。

違ったのは、乗降用の扉も全開、ということ。
ロープが一本張ってあるだけ。

日本だったら、故障で乗降用扉が閉まらなければ
列車を運行させるようなことは決してしない。
乗客が落ちたら会社の責任になるからである。

こちらでは、落ちたやつが悪い、ということになる。

実際、その時の乗客は、気持ちよさげに、
走る列車がつくる南仏の強い風を
体いっぱいに浴びていた。

そういえば、風光明媚な崖っぷちに行っても、
柵が設けられているのを見たことがない。

これも、落ちたやつが悪い、ということか。


それでは、最後に、
南仏で目撃した信じられない光景を一つ。

それは、親子連れのフランス人がサイクリングを楽しんでいる、
そんな、ほほえましい光景であった。

その親子が自転車を止め、休憩。
どうやら、フランスパンを食べるようである。
その父親は、食事前に子どもの手を洗ってあげようとするも、
周りに水道とかはない。

そこで、自分が持っていた ”エビアン”の水で
洗ってあげることにしたらしい。
その父親は、子どもが手にしているパンを取り上げ、
”エビアン”で手を洗ってあげる。


その取り上げたパンを地べたに置いて…



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おもろい話やで | 日記
私は、パリに二年間暮らしていたことがあるのだが、
そのときに見て、経験したおもろい話をいくつか紹介したい。

前半は、ほんのちょっとだけエロイ話を。

私がパリにいたのは、OECD(経済協力開発機構)という
国際機関に勤務していたからである。

当時の私の直属の上司は、
弁護士のアメリカ人女性だった。

部屋は、原則、個室なのだが、
ある日、彼女の部屋で二人きりで話をしていた。
本当に何の話をしていたのか、まるで思い出せないのだが、
会話の中で ”性別”という単語を言いたかった。

そのときに、私の頭の中に浮かんだのは、
パスポートだった。

そこで、私は、彼女に向かって、
"SEX" "SEX" "SEX" と連呼してしまった。

彼女は顔を赤らめていった。

『タカシ、そういう時は "gender" っていうの!』

そこは、アメリカンジョークで "OK" と
切り返してほしかったところではある。

が、おそらく、そう返したら本当に襲われかねない、
それほどの勢いだったのかもしれない。



私は、大学時代に陸上部に所属していたこともあり、
当時、ヨーロッパ中のフルマラソン大会に出場していた。
パリマラソンはもちろんのこと、
イギリスのロンドン、
ドイツのベルリン、
ギリシャのアテネ、
スイスのローザンヌ(バレエではありません。)、
デンマークのコペンハーゲン、
スウェーデンのストックホルム(ただし、これだけは10K走)、
そして、ヨーロッパではないが、知人がいたということで、
中南米コスタリカのサンホセマラソンにも出場した。

今回は、コペンハーゲンマラソン大会前日のお話し。

前日に、ある会場で受け付けをしてゼッケンをいただくのだが、
その会場の片隅に、怪しげな場所が。

のぞいてみると、マッサージが受けられる。
しかも、日本円にして600円ポッキリ!

  これは、受けるしかない!

大学時代は、よく部員どうしでマッサージをし合っていたが、
社会人になって一度もマッサージを受けたことがなかった。

そこでは、ポッチャリ型の中年のご婦人四名と、
スレンダーでモデルのように綺麗な若い娘一名と
合計五名でマッサージをしていた。

どの女性にマッサージをしてもらえるかは、
順番による。

私は、場合が場合だったので、つまり、
緊張していてはマッサージを受ける意味がないので、
5分の4の確率にかけて順番を待っていた。

が、大当たり。

さっさとジャージを脱ぎなさい、という合図。

では、まずは、うつ伏せからと…

ランニング用パンツを履いていたので、彼女からは
私の大事な物の一部が見えていたはずである。

太ももをマッサージしてもらっていたとき、
彼女の指先がその先にツンツンと触れる。

私は、翌日のペース、しかも考えたこともない数百メートルごとのペースのことなど、
一生懸命に余計なことを考える。


そして、本当の危機はその後にやって来た。

それは、仰向け…


最後は、マラソンではなく、観光で
オランダはアムステルダムの赤線地帯に行ったときのお話し。
決して、私が利用したという話しではない。

そこは、もはや怪しげな場所ではなく、
観光客でごった返していた。
各国各社の団体旅行用の旗があちこちでみられる。

娼婦とある男性との交渉が成立すると、
拍手と歓声さえ起こる。

あるお店の前に立ったとき、
"Sex Show" という文字が見えた。
おそらく、ストリップ劇場だとは思われるが、
そこには、英語のほか、各国のことばでも書かれていた。

日本語では…と、

そこには、オマ(マは鏡文字)〇コショーとあった。

  きっと、関西人に教わったにちがいない。


後半のマジメなお話しは別の機会に。



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