2017.06.24(Sat):両親の思い出

小林麻央さんが亡くなる前に
海老蔵さんに言ったことばである。

このニュースで、
やはりガンで他界した
私の母が残した最後のことばを
思い出さざるを得なかった。

十六年前の5月某日、
当時の職場の机上の電話が
いつものようになった。

『猪野さんですか。』

「はい。猪野です。」

当時母が入院していた
自宅近くの病院からだった。

『今晩、病院に来ますか。』

「はい、面会時間ぎりぎりに
 なるかとは思いますが…」

『今朝まで何ともなかったのですが、
 急に容態が変わりまして、
 今、肺の専門医に
 診てもらっているのですが…』

「危ないということですか!」

『はい。』

妙に落ち着いた口調に
腹立たしくなる余裕もなく、
すぐに職場を飛び出し
病院にかけつけた。

職場から病院まで一時間弱。

間に合わなかった。

病室には医師と
すすり泣く数人の看護師と
そして、
母の手を握ったままの
車いすに乗った父がいた。

「よかった」

なぜか、そう思った。

このとき、
父も同じ病院に入院していて、
母の容態が急変したとき、
看護師さんが
別の病室にいた父を車いすで
母の側まで連れてきてくれたのだった。

その父も
六年以上前に亡くなったのだが、
生前父がこのときのことを
私に語ってくれたことがあった。

このとき、
母と父はお互いの心の中で
最後の会話を交わしたと。

「私が死んでも悲しまないでね」

「ああ、わかった、わかった」

そして、
母の眼から最後の涙が流れた。

外の廊下から
隣の病室の女の子のはしゃぐ声が
きこえた。


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2017.05.24(Wed):両親の思い出

先日は母の十六回目の命日。
墓前に手を合わせていると、
母が亡くなった日のことではなく、
その数日前のことがうかんだ。

隣の病室に入院していた女の子が、
私の母に向かって愛嬌をふりまく。
それに母は笑顔で応えていた。

眼を開くと、
墓地近くのコートで
テニスに興じる大学生の声が聞こえた。

そして、その数日後、
私は東大本郷キャンパスに向かっていた。

三年前に通っていた
予備校時代の同級生の女の子二人が
五月祭(学園祭)で
各々踊りを披露するからだ。

途上の小路の信号が赤になった。
見知らぬ親子が
信号が変わるのを待っていた。
私も待つことにした。

『あのね、この前、ネコがね、
赤信号なのに渡っていたんだよ』

十六年前、
病室にいたあの女の子と
同じくらいの年齢だろうか。

キャンパスに着くと、まず、
外国の民族舞踊を踊る
元同級生の女の子の姿を観た。

そして、その数時間後、
フラメンコを踊る
やはり元同級生の女の子の姿を観た。

その日は、五月にもかかわらず
夏を思わせる暑さだった。

それでもみんな一生懸命に舞う。
この日のために稽古を積み重ね、
その成果を思い存分発揮するために。

このように華麗な舞を魅せるには、
技術はもちろんのこと、
相当の体力も要るはずである。

三年前に初めて会った彼女たちには
高校を卒業したばかりだったからか
まだ、あどけなさがあった。

しかし今や、
二人とも二十代の立派な女性。
実際、予備校時代には見せなかった
妖艶な姿にドキッとする瞬間もあった。

でも、
十六年前の彼女たちも、
誰かに愛嬌をふりまき、
そして、
赤信号を渡るネコのことを
不思議に思う女の子だったのであろうか。

五月祭2五月祭1
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2017.03.31(Fri):両親の思い出

私の両親が眠るお墓は、
母方の祖父母のお墓と同じ墓地にある。

祖父母のお墓参りをして二十年近く、
お隣のお墓の家の方とお会いしたのは、
一度だけである。

二~三年前だったような気もするし、
十年くらい前だったような気もする。

ただ、はっきりと覚えているのは、
お墓に眠るおじいちゃんの奥さまが
車いすに乗って、
お子さんといっしょに
お参りしていた姿である。

先日、お墓参りにいった際、
まず、祖父母のお墓のほうをそうじした。
ふと、お隣のお墓をみると、
側面にまっ白な戒名が彫ってあるのに
気がついた。

あの車いすに乗った
おばあちゃんの戒名らしい。

死没年月を見ると、
おじいちゃんが亡くなって二十年近く、
おばあちゃんは、ようやく
おじいちゃんのもとにいったようだ。

私の父は
母が亡くなってから十年後に
また母といっしょになった。

人生の伴侶が亡くなったあと、
残された者は
どのような想いで過ごすのだろうか。

命のはかなさと
夫婦の間だけの世界。

前者は実感できたが、
後者はどうしても分からない。


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2017.02.25(Sat):両親の思い出

私は東京の下町にある
団地で暮らしている。

十六年前に亡くなった母は、
お茶を飲みながら、
よく外を見つめていた。

ただ、見つめる先には
向いの団地があるだけで、
他に何か変わったものが
見えているわけでなかった。

なぜ、
向かいの団地を見つめているのか
母にきいたことはなかった。

さて、先日、
『君の名は。』が劇場公開中
というテレビCMが流れていた。

半年も経つのに、
いまだ公開されているということは
よほどおもしろいのだろうと思い、
まんまとCMにのせられ、
今さらながら観に行ってみた。

私が小学生のときに観た
『小さな恋のメロディ』が思い出された。

メロディとダニエルの
ただ、二人でいたい、
という純粋な感情、
三葉と瀧の
ただ、会いたい
という一途な想い、
恋愛の原点をみた思いがした。

映画を観終えると、
私は、錦糸公園のベンチで、
パンをほおばりながら
缶コーヒーを飲んでいた。

かつて、刑事裁判の起訴状で
違法薬物売買の場所として
たびたび読み上げられたこの公園も、
半年前は、ポケモンGOでにぎわい、
今は、子どもがはしゃいだり、
女子高生がマネキンチャレンジをしたりと
非常にのどかであった。

そんなふうに思いながら、
ふと見上げると、
スカイツリーがそびえていた。

その瞬間、はっとした。

母は、
向かいの団地ではなく、
亡くなって数年後
その後ろに見えることになる
スカイツリーを見ていたのかもしれないと。



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2017.01.01(Sun):両親の思い出

昨年の大みそか、
要は昨日のことなのだが、
団地に住んでいる私は、
出かけるため、
いつものようにエレベーターに乗った。

すると、
大きなマスクをしたご婦人がお一人
奥に立っていた。

『猪野さん!Kです。』

「あっ、ご無さたしてます。」

五年前に亡くなった父は、
十年以上、
寝たきりに近い状態だったのだが、
そのときにずっとお世話になっていた
ヘルパーさんだった。

この五年間、Kさんとは、
2、3回お会いしたことはあったのだが、
以前お会いしてから一年以上経っていた。

「大みそかもお仕事ですか?」

と自分で口にしたとたん、
心の中でハッと思ったことを
そのまま返された。

『こういうお仕事は、
 年末年始もないですからね。』

就業者数の約3割が
年末年始も働いている
との記事を見たおぼえがある。

警察や消防、報道関係、
交通機関や観光施設、サービス業が
すぐに思い浮かぶのだが、
介護といった福祉、医療関係も、
たしかに年末年始は関係ない。

特にお一人で暮らしている方々を
お世話をしなければならない場合や
介護、医療施設の現場などは。

一年、一月、一日、
ここまでは、
原始人はおろか他の動植物も
なんとなくは
体感しているはずである。

地球の公転と自転、月の公転が
生み出すものだからである。

しかし、時間、分、秒は
人間が造り出したものである。
そして、一年の区切りも。

年が明け、新年を迎える特別な感慨、
それは、他の動植物では
けっして味わうことのできない
人間の特権。

大みそかの昨日、
人間の作ったエレベーターの中で
ふと、そんなことを思った。

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2016.03.24(Thu):両親の思い出
『明日から寒くなるから、
 お花もつわよ。』

桜のお話しではない。

彼岸明けの昨日、
母方の祖父母のお墓参りと、
両親のお墓参りにいった。
墓地が同じだから都合はいい。

私は、お墓参りのときはいつも
駅前のこのお花屋さんで
供花を四束購入することにしている。

彼岸中日の春分の日にお墓参り、
それがふつうなのかもしれないが、
桶や杓子、たわしが限られている中、
落ち着いてお墓参りをしたかった私は、
暖かったこともあり、昨日にした。

が、人間、考えることは同じ。
予想以上にお墓参りをする方々がいらした。

『こんにちは』

私よりは若いと思われるその娘さんは、
お母さまと二人で、お墓そうじをしていた。
お父さんのほうはというと、
そばでじっと見守っているだけだった。

今どき
『ぼけっとしてないで、
 あんたも手伝いなさいよ!』
とでもいわれるのであろうが、結局、
そのお父さんは何もいわれなかった。
私からは、その方の下半身が
お墓がちょうどじゃまして見えなかった。

私のほうはというと、
墓地が東京の多摩地方だからか、
花粉がひどく、鼻水がとまらない。
個人的には今年の症状は最悪で、
鼻をかみながらのお墓そうじは
初めてである。

そして、あのお三方(?)が去ったころ、
私のほうもそうじを終え、
お線香に火をつける。
が、百円ショップで購入した
チャッカマンの調子がよろしくない。

念のためにもってきたライターを取り出し、
それで火をつけて、合掌。

ここは祖父母のお墓である。

親孝行をされる方は多いと思う。

肩をたたいたり、食事にさそったり、
旅行につれていったり等々。
しかし、私はというと、
結局何もできず、
先に逝かなかったことが
せめてもの親孝行だったか…

一方、祖父母孝行のほうは、
(こんな言葉はないかもしれないが)
年齢差もあって、
なかなかできない方のほうが
多いのではないだろうか。

ほとんどの方が、幼いころ、
おばあちゃん、おじいちゃんに
かわいがられたことと思う。

私もそうだった。
しかし、
祖父母にも何もしてあげられなかった。

だから、私は、せめて
このお墓参りに来たときだけでも、
墓前で手を合わせて、
じっくりお礼をする。

落ち着きたかった理由はここにもあった。


お墓参りに来た他の方の声が、
私を現在に戻してくれた。

そして、父方の祖父母も眠る
両親のお墓のほうへ向かった。



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2014.05.17(Sat):両親の思い出
私の最近の起床時間は
午前4時35分

ピーピーという鳴き声と
ポーポーという鳴き声がするからだ。
そう、ベランダに巣作った
あのド鳩親子の鳴き声が。

親鳩は最近、
決まってこの時間に
餌をもってくる。

二羽の小鳩は
大きくなったものの、
まだ飛ぶことができないようだ。

今や鳩の所有物となった
ヒノキ製のテーブル火鉢は
糞まみれ。


母親の命日が近いので、
今日は墓参り。

ここでも小鳥のさえずり
飛行機が飛ぶ音
風でこすれる木葉の音
テニスボールを打つ音

静かな場所と思っていた墓地も、
耳をすませば
いろんな音が聞こえてくる。



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2014.05.16(Fri):両親の思い出
私の朝は
マクドで始まることが多かったのだが、
最近は、ちょっと
栄養バランスのことも考えて、
ある牛丼チェーン店の
朝食定食も食べるようにしている。

いつも
決まった時間に食べるのだが、
お店を出ると
決まって見かける光景がある。

それは、
定年間近と思われるサラリーマンが
おそらくお孫さんであろう
女の子と手をつないで歩いている
そんな光景である。

出勤前に
保育所に寄るのであろうか。

女の子のほうはというと、
おじいちゃんと
楽しんで歩いているというふうではない。
常に、周りをきょろきょろしながら、
しかし、おじいちゃんとは
しっかりつながれている。

よちよち歩きというわけではないが、
かといって
小学生のようにしっかりとした
足取りでもない。


私も、幼いとき、お正月のときだが、
おじいちゃんと
明治神宮に初もうでに行った記憶がある。

あまりにも多い参拝客。
砂利道をゆっくりと歩いて
本殿までたどり着くのに一時間はかかる、
はずであった。

しかし、
せっかちなおじいちゃんは、
私の手を引っ張って、
ロープだけで仕切られた
緊急用の脇の細い砂利道を
さっさと歩く。

周りの大人たちは、
じいさまと幼子の組合せだったので、
誰もあえて注意しない。


あの女の子も、数十年後、
このおじいちゃんとの通園
果たして覚えているのだろうか、
と勝手に思いながら、
今朝もすれ違う。


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2014.03.23(Sun):両親の思い出

両親と祖父母のお墓参りに行ってきた。

お彼岸ということで、
ほとんどの墓前には花が供えられていた。

しかし、まだ
花が供えられていないお墓もある。

一年に4~5回、十年以上
お墓参りに来ていると、
よく花が供えられているお墓と、
そうでないお墓とかがだいたい分かってしまう。

つまり、
よくお参りに来るところと
そうでないところが分かってしまうのだ。

供えられている花もいろいろだ。

一目で女性がチョイスしたと分かる
かわいらしい花、
豪華な花、そうでない花、
供花にいくらくらいかけたか
分かってしまうのが恥ずかしい。

お墓の石の種類にしてもそうだ。

お墓を建てるときに、
業者さんから
石の種類について説明を受けるので、
お墓を見ると、
高価な石なのか、
そうでないのかが分かってしまう。

ただ、最近は、
典型的な縦長のお墓ではなく、
いろいろな形のものが増えてきている。


純粋に供養する気持ちで
お参りに来ているはずなのだが、
長い間来ていると
いろいろ気がついてしまう。



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2013.12.11(Wed):両親の思い出
もう一週間ほど前になるが、
父親の三回忌法要があった。

昨年の一回忌法要は、
ちょうど衆院選のさ中だったので、
法要が終わり次第、
ご住職より先に失礼をしてしまった。

だからというわけではないが、
今年は、ご住職を“おもてなし”
させていただこうと思った。

といっても、
別に会食を設けたというわけではなく、
帰路をごいっしょしようとしただけである。

ご住職は、千葉の房総にあるお寺から
東京を横断して
東京の西にある高尾のほうまで
わざわざ来ていただいた。

十年以上前に、母親が亡くなったときも、
お世話になったご住職なので、
今回もお世話になったということである。

ご住職の年齢は、おそらく80近く、
私は、知らず知らず、
お年より扱いしてしまったようだ。

お寺近から歩いて10分のところからバスに乗り込み、
京王線の駅に着くや、
『一人で大丈夫ですから』
と私に言って、お一人で
杖をつきながらも、
さっさと歩いて行かれてしまった。

「ちょっと、自尊心を傷つけてしまったか」
と反省しつつ、時間をかせぐため、
いつもお世話になっている
駅前の花屋さんに挨拶をしてから、
自分も駅舎の中に入って行った。

が、ご住職は、
反対方向のプラットホームに立たれていた。
「やはり、新宿までご一緒しましょう。」
と、申し上げ、
いっしょに電車に乗り込んだ。

そして、新宿駅に着いた。

JRへの乗換えも含め、
運賃の清算をするため、
いろいろ案内をさせていただいた。

が、これもやり過ぎたようである。

房総方面までの清算をするためには、
他の場所でなければできないと、
駅員さんから言われると、
またしても、ご住職から、
先ほどと全く同じ口調で、
『一人で大丈夫ですから』
と、言われてしまった。

また、やってしまった…



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2013.09.30(Mon):両親の思い出

こうして23日は、
浅草に出かけていたので、
墓参りはあきらめた。

24日、25日と
東京では雨の日が続いた。

そして、
本人訴訟の弁論準備手続きがあった26日、
台風が関東の近くを通ったものの、
弁論準備手続きが終わって
裁判所を出たときには、
晴れ間がのぞいていたので、
墓参りに行くことにしたのである。


墓地に到着すると
数々のお墓が
色とりどりの供花で飾られていた。

いつものように、
お寺さんの事務所に寄り、
準備書面とか証拠説明書とかが入った
黒いカバンを預かってもらい、
母方の祖父母のお墓からお参り。

スーツを着ての墓参りは
これで二回目である。


枯れた花があった。
私が40日前に供えたものだ。

そのときにむしり取ったはずの雑草が
青々と完全復活していた。
いちおう、またむしり取っておく。


お墓はすごく汚れていた。
ここ数日の強い風雨で落ち葉とか
いろんなものがお墓についていたのである。

23日ではなく、
かえって今日来てよかった。


お墓の上の落ち葉は赤かったが、
セミがまだしきりに鳴いていた。



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2013.09.29(Sun):両親の思い出
スカイツリー駅に向かうべく、
乗り換えた駅で、
スカイツリーが見えてきた。

妹さんが一言
『通天閣みたい』

ちょうど一年前、
通天閣を上ったことがある私は、
一応うなずいておいた。

スカイツリー駅に到着。
その“ふもと”まで来て、
スカイツリーを見上げた妹さんが一言
『失礼しました』

曇っていたのに人でいっぱい。
時間もなかったので登るのをあきらめ、
ショッピング。
親友と妹さん夫婦が
おいしそうにビールを飲み干す。

その三人を羨ましそうに見ていた
お姉さんが私のほうを見て一言
“たかしくん、
 どうせ飲めないんだから
 帰りの名古屋まで代わりに運転して“

私には時間はあったが、
ペーパーだった。


その後、浅草寺に移動。
雷門が改修工事中だったので、
巨大ちょうちんはなかった。

父親が介護保険の適用を受けてから
最高に元気だったとき、
いっしょに来たのは何年前だったか?

その時には、まだ提灯があった。

父が疲れたといって
腰かけた場所が懐かしかった。

そんな私の思いを知らず
他のみんなは、
仲見世で楽しそうにお買いもの。

本堂が見えてきた。
逆に、父といっしょに来たときは
改修工事中だったのが、
いつの間にか、工事は終わっていた。


“花やしき”の眼の前まで来たが
やはり、混んでいて時間がなかったので
引き返す。

口の悪い親友が一言
『“花やしき”のくせに入園料とるんだ』


その後、
名古屋からの御一行様が楽しみにしていた
天ぷら屋に入った。

小学生の男の子が私の前に
ちょこんとすわった。

「将来は何になりたいの?」

『料理人』

そこで、先ほどスカイツリーに失礼をした
お母さんが一言
『この子、自称エビアレルギーで、
 エビを食べようとしないのよ』

どうやら、
エビは試食しない料理人になりそうだ。


お腹もいっぱいになったところで、
バスで小旅行の出発地点まで戻る。

近くの駐車場に止めてあった車に乗り込んだ家族は、
名古屋方面に出発した。


今度は、何年ぶりに会えるんだろう。



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2013.09.04(Wed):両親の思い出
普段お世話になっている方のお父様が、
枝豆やナス、モロヘイヤなど
無農薬野菜を栽培されていて、
たくさん収穫できたということで、
その方のご自宅に送られてきた野菜の一部を
先日、いただいた。

私は、普段、
お弁当を買って食べたほうが手軽で安く
時間もかからないので、
めったに料理はしない。

しかし、先日は、いただいた野菜を
ちょこっと料理してみた。

これが、うまい。
作り手の気持ちというか、誠実さというか、
野菜にあらわれているのが分かった。

私は、アルコールを受け付けない体質なので
(8/2付のブログご参照)
居酒屋などにいっても、ビールも飲まずに
枝豆だけを食べていることがよくある。
正直、美味しいと思ったことはないのだが、
てっきり、ビールといっしょじゃないからだと
勝手に思っていた。

しかし、いただいた枝豆は違った。
味はもちろん、歯ごたえがまるで違う。
ナスも、学生時代に後輩のご実家でいただいて以来、
本当のナスというものを味わった気がした。

よく、子どもは野菜や魚が苦手といわれるが、
特に都会の子どもの場合、
野菜などの本当の味を知らないからではないか、
と思うくらいである。


私には、後悔していることが一つだけある。

私がパリに在住していた当時、
日本のように、お弁当やカップ麺、
牛丼屋や定食屋、コンビニといったものが
現地にはなかった。
外食といったら、マクドくらいだった。

だから、私は、
カレーライスとパスタというローテーションで
自炊していた。

しかし、帰国後は、また、自炊しなくなった。
ただ、いつか、母親にカレーライスをつくってあげようと
思っていたのだが、
その前に、他界してしまった。

おそらく、つくってあげたら喜んでくれていたと思う。


もし、親孝行をしたいと思っていらっしゃる方、
いつ親孝行するか?

“今でしょ”

本当に。



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2013.08.17(Sat):両親の思い出
お盆の季節の墓参りは、
強い日差しを浴びながら汗だくになる。

今年はどうしようと
毎年にように思い悩んで、
いつものようにマックにいたら、
お孫さんをかわいがるお爺ちゃんや、
小さいお子さん連れの家族を見かけた。

そこから、お供え用の花を予約するため
花屋に電話するのに時間はかからなかった。
お盆の季節だからなかなか電話に出てくれない。
切ろうと思った瞬間、つながった。

墓地には、猪野家の墓のみならず
母方の祖父母の墓もあり、
いつも祖父母の墓のほうからお参りする。

雑草が思いのほか生えていた。
豪雨だったり、猛暑だったりだからか。
墓と墓の間にある雑草は、
根っこから引っこ抜くことができない。
一応、見えるところだけの草をむしり取ってから
ブラシをかける。

いつの間にか日は雲に隠れていた。

次に、両親のみならず
安政時代のご先祖様が眠る猪野家の墓へ。

不思議なことにきれいだ。
ブラシをかける必要がないくらい。
しかも、いつもは、
前回のお線香の燃えかすが残っているのに、
今回だけは、きれいになっている。

誰かがきれいにしてくれたようだが、
花は供えられていなかった。

お寺の方がきれいにしてくれたのか
とも思ったが、
先ほどの祖父母のお墓は
きれいにはなっていなかった。

そもそも、こんなことは初めてだった。

目に見えないほこりだけをはらうように、
お水をかけて軽くブラシをかける。

謎が解けないまま墓地を後にした。


特急でも新宿まで一時間弱。
なるべく座れるように、
いつも一番前の車両に乗る。

座るとたまたま運手席の真後ろで、
首を横にすれば、
走行中の景色が正面に見えた。

もう五十回以上は、
この電車に乗っているはずなのに、
初めて見る光景だ。

意外に踏み切りが多い。
意外に駅を通過するときのスピードが速い。
意外にカーブを曲がるときのスピードも速い。

そんなことを思っていたら、
ある駅から乗車してきた
いかにも鉄っぽい男性と
他の家族連れのお子さんで
私の視界はさえぎられた。

気がついた運転手さんも
運転席の後ろにある幕を下ろした。



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2013.05.19(Sun):両親の思い出
あの日も、昨日のように晴れて、
暑い感じがした日だった。

昨日は、母の命日である。

いつものように駅近くの花屋で、
予約していた花束を購入。
お盆とかお彼岸とかの季節ではないので、
その場で注文すると、時間がかかることを
数年前の経験で知っていたからだ。

母方の祖父母のお墓の分も購入するので、
両手いっぱい花束をもつ。
お祝い用の花束をいっぱいに持つ光景はよく見かけるが、
墓前に供える花束をこんなにもっているやつは、
自分しか知らない。

バスに揺られて10分以上、お寺さんに到着。

いつものようにお寺さんの事務所にご挨拶をして、
お線香を購入。

墓地に出る。

さみしい。

シーズンなら、お参りする方々がいて、
お墓も色とりどりのお花で飾られ、
華やかで、賑やかだ。
墓地の中の小さな原っぱで、
お弁当を広げながら、
“お花見だね”
といいながら、くつろぐご家族を見かけたこともある。

が、昨日の墓地は、人っ子一人いない。
枯れた花が並んでいるだけ。

まずは、母方の祖父母の墓に。

なぜか枯れた花が一輪、お墓に横たわっている。
その周りには、生命力あふれる雑草が
青々と生い茂っていた。
祖父母の魂が宿っているかもしれないのに、
私は、そのいっぱいの雑草を引っこ抜くことから始めた。

祖父母の墓は、いつも汚れている。
春分の日から二ヶ月も経っていないのに尋常でない。
水をかけてブラシでこするだけだが、
なぜかいつも三十分かかる。

部屋の掃除をしていて、
祖父母が代わる代わるゼロ歳児の私を抱っこしている
白黒写真を見つけたことがあった。
初孫だから、よほど可愛かったのだろう。

そのお礼を込めて、ブラシでなでる。


次は、両親、そして猪野家のご先祖さまが眠るお墓に。
江戸末期からのご先祖さまが眠っていらっしゃるので、
なんか、重い、といったら語弊があるが、
墓前に立つと、なんか迫ってくる感じがした。

お墓を建てたばかりのときは、
まったくブラシをかける必要がないほどきれいだったが、
それでも年々汚れてくる。

母の戒名の碑銘もきれいなはずだったが、
横に寄りそうまっ白な父のそれと比べると、
汚れてきているのに改めて気がつく。
まっ白にならないはずなのに、
一応、ブラッシングしておく。

そして、合掌。

落ちる夕陽が木々の後ろに隠れたとき、
現世に戻ってきた感じがした。


帰りの電車、なんとか座れた。
隣に座った二十歳前後と思しきお嬢さんが、
いつの間にかウトウトし始め、
その頭を私の右肩にそっとのっける。

これが、おっさんの頭だったら
不快な気持ちになるのだが、
そこは私も男、
二十年以上前の思い出にふけりながら、
新宿駅に着くまでそのままにしておいた。

ご先祖さまからのお礼か…

あっという間だった。
新宿駅に到着すると、
周りの乗客から見るとその恋人たち、
いや、その親子は、
なぜか黙って、お互い離れ離れになり、
週末の新宿の雑踏の中に消えていった。



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両親の思い出 | 日記
2013.03.22(Fri):両親の思い出
春分の日とか、みんなも墓参りするであろう日は、
わざと、遅い時間にお参りをする。
混んでいると、桶とか柄杓とかブラシが全部使用されてしまい、
せっかく来ても、すぐには使えないからだ。

ただ、お寺さんの事務所は夕方5時に閉まってしまうので、
夕方4時ごろに到着するようにはしている。

一昨日の20日も、ちょうど夕方4時ごろに墓地に到着。
その時、お墓参りをしていたのは、見える範囲では、
私のほかに、一組だけであった。

ただ、車は、5~6台止まっていたので、
私の見えないところで、数組がお墓参りをしているはずだった。

母方の祖父母のお墓参りを終えた時点で、残り20分余り。
急いで、猪野家の墓へ移動。
今にも雨が降りそうな空模様で、既に暗くなり始めていたこともあり。

猪野家の墓には、両親を含め、十二名のご先祖さまが眠っている。
十か月前までは、両親だけだったのが…


東日本大震災の一周年の日は、ちょうど
亡くなった父の百か日に当たっていたので、
父の故郷である愛媛県南宇和郡にあるお寺さんで
法要をあげていただいた。

が、同時に、"友引"の日だったので、
地元のご親戚の方は誰も来ず、
 ”東京にお墓を建てたのだから、
  ここにある猪野家(ただし分家)の墓の性根を断って、
  先祖代々の魂を東京のお墓を移してほしい。”
と、ご住職さんを介して言われたことは、
1/29付のブログでも述べた。

母が亡くなったときは、お墓の知識がまるでなく、
何も深く考えずに、東京にお墓を建ててしまったのだが、
しょっちゅう宇和島まで行く余裕はないので、
いずれにせよ、東京に建てていたとは思う。

また、父方の祖母が亡くなったとき(2/1のブログご参照)、
母の分骨だけは、宇和島のお墓にも納めてはいた。


地方の方は、ご先祖さまを大切にする。
その宇和島の猪野家の墓には、
ご先祖さま代々、両親を除くと、十名眠っていた。

だから、私が東京などにいる間は、
ご近所の親戚の方が、お参りをしてくださっていた。
そうしたご親戚の方にこれ以上迷惑をかけることもできなかったので、
お墓を移すことに決めた。

一言でお墓を移すとといっても、やることはたくさんある。

まずは、お墓や位牌から仏像などすべて
ご先祖さまの魂を抜くためのお経。
だから、そのためのお経は、一か所ではすまなかった。

次に、そのご先祖さま一人につき一枚ずつ、
役所に届ける用紙に、氏名と自分との間柄、
そして没年月日まで書くことになっている。

  そんなの分かるか!

と、思っていたが、お寺さんのほうできちんと記録してある。

記録に残っているなかで、最も昔のご先祖さまは、
江戸時代の安政時代のときに亡くなった(生まれたではない)方で、
祖父母どちらかの祖母である。
祖父母のどちらかまでは分からない。

ご先祖さまの中には、正妻でない女性の方もいらっしゃる。

また、昔の人は、お家を絶やさないことに必死だったので、
養子の方々も以外に多い。

父も養子で、元々の血筋は、猪野家ではない。
だから、私も、三十代のころまでは、
お前が結婚しないと、猪野家が途絶えてしまう、
と、時おり父から言われていた。


父が元々いた家は、曹洞宗、
養子先の猪野家は、浄土宗。

そして、東京や大阪周辺の親戚は、元々いたほうの親戚が多く、
宇和島には、養子先の親戚が多い。

だから、母も父も亡くなったときは、
東京のほうでは、曹洞宗のお経、
宇和島のほうでは、浄土宗のお経で葬儀をした。

そうでもしないと、
それぞれの親戚の方が納得しそうもなかったからだ。

だから、母の位牌は、曹洞宗のものと浄土宗のものと二つある。

祖母が亡くなったとき、宇和島に行って、母の分骨も納めたとき、
母の位牌はすでにあるといったのに、
周りの親戚の方から、祖母の位牌といっしょにつくってもらえ、
と強くいわれつくったからだ。

だから、父の位牌も二つめをつくってもらうとも思ったが、
先ほど述べたように、親戚は葬儀に参列しておらず、
お寺さんからも、なぜか拒否されてしまった。

十年ほど前は、母のはつくってくれたのにである。
理由はご住職から聞いたはずなのだが、よく分からなかった。
やはり、位牌二つは、さすがにまずいということか…

こちらのお寺は、ご住職といっても、
私より若い女性の方なので、十年前は、私と同様、
位牌づくりを拒否できなかったのかもしれない。


次に、遺骨などを東京に移さなければならない。
十二名分の遺骨など東京のお墓に入るのかと心配していたら、
両親と祖母以外のご先祖さまの分は、
小さな骨壺に入った霊土という土に魂がまとめて込められていた。


そして、魂を抜かれたほうの宇和島のお墓はただの石と化し、
その横の墓碑とともに単純に破壊されるだけ。
元の位牌や仏像も無造作にダンボール箱にまとめて入れられ、
焼却される。


東京のお墓のほうでは、
宇和島から届いた遺骨と霊土を納め、
浄土宗のご住職にお経をあげてもらう。
普段は、曹洞宗のご住職にお世話になっているのだが…

そのお経の途中、
浄土宗のご住職がご先祖さまの名前を一名一名呼ぶのだが、
『このご先祖さまは、何とお呼びするのですか?』
と、不意に聞かれる。

ちなみに、東京の墓地のお寺さんは、真言宗。
そのお寺さんの事務所にも、宇和島の役所でもらった書類を渡し、
永代使用許諾書なるものに、やはり、ご先祖さま一人につき、
氏名と自分との間柄、そして没年月日まで書く。


以上、お墓を移すための費用、40万円也。


そんな東京のお墓も、
今までは、ブラシをかける必要もないほどきれいだったが、
だんだん汚れてきた。

母の戒名の刻銘と父の戒名の刻銘との汚れ方も
明らかに違う。


夕方5時の時を知らせる鐘が鳴った。
それまで、両親のことを想っていたが、
宇和島からはるばるいらした十名のご先祖さまを想うのを
忘れていたのを思い出し、
あわてて、また合掌。


夕方5時を5分余りすぎたところで、
事務所にご挨拶申し上げ、墓地を去る。
こうして、総勢15名分のお参りがすんだ。

今にも雨が振り出しそうだった。


そして、帰りのバスに乗ると、雨が降り出した。




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両親の思い出 | 日記
2013.03.21(Thu):両親の思い出
自宅近くの桜は三分咲きであったが、
ここでは、まだ一部咲きだった。

どんよりした雲の下、
そのソメイヨシノの木の上を
私が、かつて10,000mで35分台の自己ベストを出した
法政大学の陸上競技用のトラックに通ずる陸橋が走っている。
(1/3付のブログご参照。)

バスの車窓から見上げると、
そんな光景がみえてきた。
何度もみるはずなのに、いつも懐かしい。


ご先祖さまが眠る墓地に行くには、バスを降りて、
さらに、歩くと長いトンネルを抜ける必要があった。

トンネルを抜けると、そこは緑が一面が広がるはずである。
春になれば。

その墓地に着いて、いつものようにお寺さんにご挨拶。

「こんにちは。
 ここで、お世話になっています猪野です。」

『あっ、猪野さん。
 選挙お疲れさまでした。』

「ありがとうございます。
 落ちちゃいましたけど。」

この前の衆院選のときに、わざわざお寺さんまで行って、
自分を売り込みにいったわけではない。
そもそも選挙区ではない。

たまたま、父の一回忌が選挙期間中にあり、
お寺さんまで、騒がしてしまったということである。
(昨年12/5付のブログご参照。)


この墓地では、両親含め総勢15名のご先祖さまが眠っている。
ただ、お参りするお墓は二つ。

一つは、母方の祖父母とおじが眠るお墓。
だから、猪野家の墓ではない。
もう一つは、猪野家の墓である。

ただ、同じ墓地にあり、
と、いうか、母が亡くなったときに
どこに猪野家の墓を建てたらいいか皆目見当がつかなかったので、
この墓地に決めたということである。


祖父母らのお墓のほうがお寺の本堂に近いので、
いつもこちらのほうからお参り。

母方のご親戚の方々はご高齢というとこもあり、
こちらのお墓は汚れていることが多い。

この前は選挙期間中にお寺さんに来たものだから、
というか、早く選挙活動に戻れと急かされたものだから、
祖父母のお墓までお参りしている時間がなかった。

したがって、昨年の秋分の日以来、
半年ぶりのお参りということになる。
だから、汚れはひどかった。

ただ、数年に一度、
そのご親戚の方が業者さんに依頼しているのか、
異様にきれいになっていることがある。

それ以外のときは、猪野家の墓より丁寧にブラシでこする。
だから、お墓にいる時間も、こちらの方が長い。

祖父母がくすぐったいと言っている気がいつもする。
祖父母から受けたご恩は、
こんなことくらいで返せないことは分かってはいても、
せめて、と想いながらブラシでこする。


せっかちなおじいちゃんとの思い出は、
小さいときに明治神宮に初もうでに行ったときのが鮮明に残っている。

初もうで客でごった返しているから、
緊急用の通路を確保するためのロープが脇に張ってある。

そして、おじいちゃんに手を引っ張られながら、
その狭い緊急用の砂利道をスイスイと行く。

長い列を待つ周りの初もうで客も、
じい様と幼子という組み合わせなので、
何もいわずに、むしろ見守ってくれる。

私はというと、

「なんで、みんなもココを通らないんだろう?」

と、あたたかいみなさんの神経を逆なでするようなことを思っていた。


そのあと、もうすぐ撤去されるといわれている
原宿駅前の横断歩道橋の足もとにあるそば屋さんに入った。

初もうで客で混んでいるので、
注文したかつ丼がなかんかこない。

『ねーちゃん、ねーちゃん、かつ丼まだか。』

なぜか、この場面だけ覚えている。
その、”ねーちゃん”も、
今はお孫さんがいらっしゃるにちがいない。


そんな、おじいちゃんのおかげで、
今の私がある。

東京大空襲のときに、防空壕に避難していたらしいが、
なぜか、ふとここにいては危ないと感じたらしい。

そして、おじいちゃんは、
その防空壕でのん気に歌を唄っていた私の母の手を引っ張って、
家族ともどもその防空壕を出たらしい。

そして、直後ではないんだろうけど、その後、
その防空壕はB29の爆撃にあったらしい。

その後、おじいちゃんは、はたまた何かを感じたのか、
みんな、はぐれたら、国会議事堂に集まろうといったらしい。
国会議事堂なら、B29も爆弾を落とさないだろうと判断して。

で、実際にはぐれたらしいが、
国会議事堂前で再会したのではなく、
偶然に、別の場所で再会できたらしい。

もちろん、今の私があるのは、
このおじいちゃんだけのおかげではない。
そのまた前のご先祖さまたちが各々、
自分の子どもらや孫を大事に育ててきたからこそ。

そして、母方のご先祖さまだけでなく、父方のご先祖さまも。

学生時代に、ご先祖さまは大切にしろ、
とは聞かされていたが、本当の意味が理解できなかった。
でも、今は分かる。


ところで、そんな死者・行方不明者10万人以上、
被災者100万人以上も出した東京大空襲、
そして、広島、長崎への原爆投下等々、
それでも、アメリカに敵意を抱く日本人は少ない。

かたや、中国や朝鮮半島の人々の日本に対する感情は、
決していいものではなく、未来永劫変わりそうもない。
(その理由についての私見は、1/5付のブログご参照。)


話がそれてしまったが、
そんなおじいちゃんを見た最後の姿は、
私がこれからパリに赴任すると挨拶にいったとき、
帰宅しようと立ちあがった瞬間に見えた
見事に光っている頭だった。

私が物心ついたときから、この頭だった。

ウソのように聞こえるかもしれないが、
これが最後の姿かもしれないなー、と感じた。


その時のおばあちゃんはというと、
私のために、いつものように、ご近所の和菓子屋さんから
甘い物を買ってきてくれた。

もう、私は、二十代後半だったのに。
もう、おばあちゃんは、腰が曲がっていて、
近くに出かけるだけでもしんどかったはずなのに。

私が来たら、甘いものを買ってきてくれるというのは、
私が幼児のときから続いていた。
いつも甘いものだけど、同じものは買ってこない。

でも、その時は、もう耳が聞こえない状態で、
おばあちゃんとの会話はなかった。
ただ、私がこれから外国に行ってしまうというのは、
分かってくれたらしい。


こうして私や両親が来て、帰るときは、いつも決まって
おばあちゃんが見送ってくれた。

普通は、姿が見えなくなるまで見送るということだが、
おばあちゃんの場合は、私らが見えなくなると、
さらに、見えなくなるところまで来て、見送ってくれた。

昔の私は、小さいながら、正直、
しつこいなー、と思ったこともあった。
が、その時のおばあちゃんは、もう元気がなく、
見送ることさえできない状態だった。

人間、勝手なもので、それはそれで寂しかった。


おばあちゃんとの思い出は、
私が眠ったらいつも毛布をかけてくれたこと、
私が見事に蚊をつぶしたのに、
隆にできるはずがないと信じてくれなかったこと、

そして、小さいとき、
テンションが高くなった私は、
おばあちゃんのところに自分一人で泊まるといい、
それならと、実際、両親が出ていくやいなや、
私は、寂しくなって、泣き叫び、
あわてて、両親を呼び戻してくれたとか、いろいろある。


母方の祖父母らのお墓参りがすみ、
次は、猪野家の墓へ。

”安政の眠りから覚めたご先祖さま”とは、
父方のほうのご先祖さまのほうのお話しなのだが、
長くなったので、つづきは後日に。




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両親の思い出 | 日記
2013.03.10(Sun):両親の思い出
先日、部屋の掃除をしていると、
B4版かA3版の大きな封筒が出てきた。

ほこりがかぶっていたので、ベランダに出て払い、
中を開けてみると、大量の領収書が。

それこそ、平成の一桁代から母が亡くなった年までの
両親の医療費の領収書である。
きれいにそろえてあった。
母がそろえたに違いないことは一目で分かった。

今さら金額を計算するようなことはしなかったが、
おそらく、かなりの額にのぼる。

これらの年は、毎年、医療費控除のため、
つまり、税金を返してもらうため確定申告をしていた。
だから分かるのだが、毎年、両親二人合わせて170~180万円と、
200万円という上限に近い額がかっていた。

しかも、医療費が高額になると一部払い戻しされるのだが、
その額を差し引いた上での額である。

だから、見つかった領収書の存在が分かっていれば、
上限額いっぱい医療費控除を受けられたはずなのだが、
十年以上経った今、
確定申告の計算が誤っていたから税金返しくれとはいえない。
ちなみに、5年以内なら大丈夫。


実は、その他に、十数年前に
父が入院した際に病院に支払った保証金の受領書が出てきた。

途中からブログを見ていただいた方は、ここまでのお話し、
何のことやら、と思われるかもしれない。
十数年前、父の体がいつ入院してもおかしくない状態で、かつ母もガンを患い、
私は札幌勤めで、既婚の弟も電車の運転手をしていて、
なかなか自宅に帰れないような時期があった(1/17付のブログご参照)。

そうした状況下、母のストレスを和らげるためにも、
父を入院させてもらった、というときのことである。


その受領書には、母が書いたと思われる父の名があった。
その受領書をとっておきたい気持ちもあったが、
一円でもおしかった私は、病院に行って、その保証金を返金してもらった。

そのとき、今度は私が、受領書の裏面に
亡くなったはずの父の名を領収人として書いた。


両親からの贈り物だと、自分に言い聞かせながら。



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両親の思い出 | 日記
2013.02.01(Fri):両親の思い出
私は、ようやくまともな人間になれた。

そもそも父ではなく、私がここへ来たのは、
父が寝たきりであったということもあったが、
祖母が私の名前を

「たかし、たかし」

と呼び続けてくれたから、
そこで、”Hさん”が私のところに連絡くださったからだ。

私は、祖母のことではなく、
親戚の方にせよ、職場の方にせよ、
人の目ばかり気にしていた。
自分のことしか気にしていなかった。

祖母とは、二十年以上、会っていないはずなのに、
”Hさん”によると、
私や弟にずっと会いたがっていたという。

私のほうとはいうと、この自在園からくる
一か月に一度のお便りで、ふと思い出す程度。
陸上のこと、勉学のこと、恋愛のこと、仕事のこと、両親のこと、
そうしたことで頭がいっぱいで、
祖母のことはほとんど考えたことがなかった。

母方の祖父母は、既に亡くなってはいたが、
存命中は東京に住んでいたので、身近だった。
しかし、この目の前にいる祖母のことは…

私は、祖母の手を握りはしなかった。
さすった。
冷たかったから。
この二十年以上
祖母のことをほとんど考えなかったことを
わびるように、
この二十数年を取り戻すかのように、

私が小学生のとき、
祖母が、東京でも売っているお菓子を
ここ御荘で買って、弟のと二人分
小包で送ってくれたことを、ふと思い出した。


祖母の眼から一筋の涙が流れた。

九か月前、母と父もこんな感じだったか、


30分以上、さすっていたらしい。
というのも、同じ部屋にいた親戚の方が
そうおっしゃってくださったからだ。

その後、祖母の脈を測りに部屋にやってきた職員の方が、
祖母の手を握り、思わずこぼした。

『あら、あたたかい。』


その間にも、私の真後ろにいるおじいちゃんは、
職員の方に、のどにつまらせたタンを吸引してもらい続けていた。


それから、数時間が経っただろうか、
いつものように、ソファーの上で横になっていると、
いつものように、突然、起こされた。
そして、いつものように、危ないと。

しかし、いつもと違う、と感じた。


自然死とはこういうものなのだろうか。
本当に意識が徐々になくなっていくのが分かる。
祖母の手を、今度は握っていたから。

私は、最後まで呼び続けた

「おばあちゃん、おばあちゃん」


午前6時、自宅にヘルパーさんがいらしている時間。
私は、自宅に電話した。
ヘルパーさんが出た。
祖母の死を父に伝えていただけるよう、お願いした。


祖母が待っていたのは、
私がにここに来ることではなかった。
私の気持ちを待っていたのかもしれない。


またもや、私が事実上の喪主となり、
四十九日までやってしまうという強引な葬儀も終わった。
そして、いよいよ御荘を発つことに。

私は、祖母がこの十五年間介護を必要としていたことを
気に留めたこともなかった。

その間、”Hさん”をはじめとする自在園の職員の方々が
それこそ、二十四時間体制で祖母の面倒をみてくださった。
だからこそ、自分は今までの生活ができていた。

そう思うと感謝の気持ちでいっぱになった。


今日も、あのおじいちゃんは、のどにタンをつまらせ、
職員の方に吸引してもらっていた。



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両親の思い出 | 日記
2013.01.31(Thu):両親の思い出
私には、人の命を救うまでの力はなかったが、
延ばす力はあったのか、
祖母は、私が到着しからも数日間、小康状態を保っていた。

私が到着したときに
心配そうに見守ってくださった親戚の方々も
三々五々帰宅される。
ただ、いつ逝ってもおかしくない状態であることには
変わりなかったので、
頻繁にこの施設には来てくださる。

私が到着したときにはいらっしゃらなかった親戚の方々も
来てくださるようになった。
全員ではないが、どなたが、父とはどういう関係に当たるのか、
というのが段々分かってきた。
お顔も識別できるようになってきた。

親戚の方々は、ご自宅が比較的近いので
家にずっといてもよさそうな感じだったが、
祖母のいる部屋にしょっちゅう来てくださる。

私はというと、ソファーの上で横になるといった程度だが、
施設に泊めていただいたりした。
お風呂は、親戚の家でお世話になっていた。

次第に、私も親戚の方々も、疲労の色が段々濃くなってきた。

いつしか、
いつ逝ってくれるのかしら、
という発言も、時おり聞こえるようになった。

職員の方が
『ご本人は、耳はしっかりしているので、』
と、注意する。


そういう私も疲労はピークに達していた。
今度こそは危ないと、
夜中にソファーの上で横になっていてもたたき起こされ、
祖母の横につくも、状態がまた落ち着く。
そんなことの繰返しであった。

施設に常駐している医師の診察も段々おざなりになり、
親戚からは苦情が出る始末。


私は、いったん東京のほうに戻ったほうがいいか悩んでいた。

職場では、祖母が危篤だといって行ったのに、
いったい、いつまで休んでいるんだ、
と、間違いなく思われている。

一方、こちらでは、
祖母が依然危ない状態であることには変わりなく、
親戚の方々も、自分らがこの部屋にいるのに、
一番近い親戚のお前がいなくなってどうする、
という、雰囲気であった。

まさに葛藤。

結局、いったん帰京することにした。

近くのバス停まで親戚の方が車で送ってくださった。

行ったり来たりで大変ですね、
という言葉をかけてくださった。

バスに乗って宇和島駅へ。
そして、そこから松山駅行の列車に乗る。
今度は自由席で。


八幡浜駅付近だったと思う。

人生初、車内放送で呼び出しを受ける。
電話がほしいと。

電話をすると、祖母が今度こそ危ないと。

慌てて、今来たばかりの道を戻る。

  あのおっしゃりかたからすると、今度こそだめだろう。
  多分、間に合わない。
  なんで、あの場にい続けなかったんだ…

そんな後悔した思いで戻った。

が、到着すると、私が数時間前に部屋を出たときと
なんら様子は変わっていなかった。
外が既に暗くなっていたことを除いて。

祖母ももちろん、まだ意識はあった。

  結局、最後までここにいろ、ということか…



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両親の思い出 | 日記
2013.01.30(Wed):両親の思い出
母が亡くなって、九か月ほど経ったとき、
職場の電話がいつものように鳴った。

しかし、電話先の相手はいつもと違っていた。

『自在園ですが。猪野隆さんですか?』

「はい、そうです。」

でも、馴染みがなかったわけではなかった。
そこは、特別養護老人ホームで、
父方の祖母がお世話になっている施設。
ここ15年ほど、一か月に一回のペースで、
その施設から、お便りが届いていたからだ。

でも、そこの職員の方とお話しをするのは
初めてであった。

『おばあちゃんのことなんですが、
 血圧が段々下がってきていて、
 かなり危険な状態です。』

自宅に連絡をしても、寝たきりの父しかいないので、
つながらなかったのであろう。

「分かりました。すぐに行きます。」

すぐに行くとはいっても、そこは、
愛媛県南宇和郡、数時間で行けるような距離ではない。
おそらく、今から行っても間に合わない…

しかし、部長に事情をお話しし、まずは東京の自宅へ。
自宅に着くやいなや、父にも事情を話す。
電話をいただいてから1時間半ほど経っていたので
自在園に連絡し、これから東京を発つ旨伝えた。

職員の方は、仕事中に東京からわざわざ来るのも大変ですね、
といったことばをかけてくれた。
祖母の様子が先ほどよりは落ち着いているということで、
父からは、現地には宿泊施設なんかないぞ、といわれつつも、
一応、数泊分の身支度をする。

羽田空港で正規料金の航空チケットを購入し、まずは松山空港へ。
私は、十年ほど運転ご無沙汰のペーパードライバーだったので、
松山駅から宇和島駅までディーゼル列車に乗る。
四国の列車は、電化されていないところがほとんどだった。

松山駅で指定席券を購入すると、駅員さんは、
指定席が埋まりそうだったので、あなたは運がいい、
みたいなことをおっしゃる。

列車の中に入ると、たしかに、指定席はいっぱいだったが、
自由席はガラガラだった。


宇和島駅に着いたときは、
既にバスも走っていない時間だった。
自在園のある南宇和郡の御荘は、
ここから車でさらに一時間ほどかかる所。

そこで、タクシーに乗る。
宇和島には二十年以上ぶりに来るが、
断片的な光景は覚えているものの、
地理や交通のことまでは全然覚えていない
といったお話しを運転手さんにする。

運転手さんは、
御荘では真珠がよく採れ、バブルのころは、
宇和島駅からタクシーを利用する漁師さんが多く、
料金のほかにもチップとして一万円はもらっていた
というお話しをする。

ライトの先にいつ幽霊がとび出てきてもおかしくないような
くねくねした暗い夜道をひたすら走る。
タクシーのメータが着実に上がるにつれ、
運転手さんはますます饒舌になり、
私はというと、だんだん無口になる。

そのメータが一万円ちょっと超えたところで、
自在園に到着。
昼に電話をくださった職員の方が、
わざわざ玄関まで出迎えてくださった。

電話の声からすると、もっと年配の方かと思っていたが、
きれいで若い女性の方だった。
この施設で役職をもつ”Hさん”という。


中に入ると、そこは幼稚園と見間違うような雰囲気。
幼児らが心をこめて描いた絵が
ところどころに貼ってある。
ただ、薄暗くて、ひっそりしているところが、
幼稚園らしくはなかった。

祖母のいる部屋に入ると、そこには、
二十年以上前、お会いしたことはあるはずだが、
初めてお会いするような親戚の方々が
ずらりと並んでおられた。

  どなたが、どなたか、まるで分からん…

ただ、間に合ったようだ。
母のときは、1時間でかけつけても間に合わなかったが、
今回は、7~8時間かけて来たが間に合った。

『隆さんが、東京から来てくれたわよ。』

”Hさん”がまだ逝ってはダメだという意味も込めて
大声で話かける。

祖母はすでに眼が見えない状態ではあったが、
微笑んでくれたような気がした。


私のすぐ後には、
タンをつまらせ、それこそ数十分おきに、
職員の方から吸引してもらっている
見ず知らずのおじいちゃんがいた。
もちろん、24時間体制で。


『隆さんが来てくれたというのに、
 元気にならないわね。』

『まだ、誰か他に待っている人がいるのかしら。』

親戚の方々が口ぐちにおっしゃる。


  私には、人の命を救うまでの力はない。



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両親の思い出 | 日記
2013.01.29(Tue):両親の思い出
病室に入ると、
どう素人目に見てもすでに魂が抜けていると分かるのに、
懸命の心臓マッサージを受けている父の姿があった。

また、間にあわなかった。
やはり、親不孝だったようだ。

「もう、いいです。」

との声を発したときが、人工的な死亡時刻となった。

万が一のときも心臓マッサージだけは止めないでくれ
とお願いしたことを後悔した。
私が到着したときもそうだったが、
看護師さんらは一時間以上も、もちろん交代でだが、
一生懸命に心臓マッサージをしてくださった。

父は、下痢をしたのが分かり、オムツを交換してもらうため、
ナースコールを押したらしい。
そして、オムツ交換をしてもらっている間にも
みるみる様態が悪化していき、
ついには心臓が止まったということだ。

つまり、その下痢は内臓の機能停止への第一歩だった。

母のときと異なり、親族にも看取られず、
心臓マッサージを受けながら
父はどういう思いで他界したのであろうか?
転院したその日に、見ず知らずの土地で…


父が亡くなった翌朝、
ガタン
と部屋のタンスの音がした。
父が戻ってきたようだった。
今、現在も、部屋には
父と母がいるような気がする。

選挙に落ちて無職になってしまったある日、
そのタンスの観音扉が開いていた。
自宅の鍵は、今開けたばかりだから
空き巣が入ったわけではない。

駅三つ離れたところに奥さんと住んでいる弟も、
お線香をあげに、時おりこの部屋に来るので、
弟に開けた覚えがあるかときいても、知らないという。

ある夜、弟が急に部屋に飛び込んできて、いう。

「もしかして、お金があるかもしれない!」

タンスの中に十数万円あった。
父は生前へそくりをしている話をしていたらしい。
弟も、地下鉄に乗っていて、ふと思い出したという。

そのタンスは父が寝ていたベッドの真横にあるのだが、
そういえば、父は、生前、
たまにそのタンスの中をのぞきこんでいた。
きっと、母の形見でも見ているのかと思っていたが…

どうやら、私が鈍感だったがために、
弟に足労をかけてしまったようである。



父が亡くなった日の昼、
転院の手続きもすませ、私が病室から出ようとした際、

「入れ歯を持ってきてくれ」

と父にお願いされていた。
そこで、持ってきた入れ歯を父の口に入れる。

母の場合と異なり、なんとも素っ気ない最期のことば。


そういえば、私が産まれた時も素っ気なかったらしい。
父は、私が産まれた瞬間、パチンコをしていた。
玉が出ていたので止められなかったという。
おそらく、病院にはいられなかったからなのであろうが…


これも母の場合と異なり、数十分して葬儀屋さんが登場、
というわけではなかった。
この日に来たばかりの病院は、千葉県なので、
東京の葬儀屋さんとは提携していないという。

そこで、母のときにお世話になった葬儀屋さんに連絡し、
遺体を運んでもらった。



父とは、正直、あまりいい思い出がない。

ふつうの子は、正月を楽しみに待つ。
しかし、私は、小学生の間は、
正月がくるのが嫌で嫌でたまらなかった。

父は、生まれながらの芸術家で、
書道、絵画等の美術、詩吟などに長けていた。
職業は地方公務員だったが。

だから、学校の宿題だった書き初めには、
非常にうるさかった。
まず、墨汁だが、市販ものは許されず、
硯からすらされた。
だから、他の同級生の書き初めと比べ、
私の字は決まって薄かった。

泣き虫の私は、泣きながら
何時間もかけて書いていた。
その中から父の眼に適ったものを学校に提出したのだが、
嫌々書いたものだから、躍動感のない字だったとは思う。


私は、小学生なのに、プロレスを好んで見るようになっていた。
それは、テレビが一家に一台の時代だったからだ。

当時の学校では、”太陽にほえろ”の話でもちきりだった。
特に、松田優作扮するジーパン刑事が
『なんじゃ、こりゃ』
という名セリフを残して殉職したときは。

だから、私も ”太陽にほえろ”を見たかったので、
あのテーマ音楽とともに出てくる夕陽を見ていると、父が

「こんなもの、子どもがみるもんじゃない」

といわれ、
アントニオ猪木が死闘を繰り広げる新日本プロレス、
そこにチャンネルを変えられたからである。
金曜夜8時の出来事であった。


母が亡くなって、父と二人暮らしになってからの
思い出のほうがまともなようである。

父と亀戸天神に行った帰り道、
買ったばかりの女性用ブルゾンを早速着ていた父が
突然の強風におあられ、思わず私の肩をつかむ。

父のほうから私を頼った唯一の瞬間だった。



お通夜と告別式は東京で行ったが、
父の生まれ故郷は、
愛媛県南宇和郡御荘町(現愛南町)なので、
百箇日法要は、その故郷で行うことにした。
その日は、あの東日本大震災からちょうど一年後の
3月11日だった。

父が亡くなって年が明けた1月に地元のお寺さんに連絡し、
父と幼なじみで、父のいとこに当たる親戚の方にも連絡した。


その場所は、宇和島駅からでも
車でさらに一時間ほどかかる場所。
電車やバスで行くには非常に不便だった。
そこで、私は、
二十年ほど運転していないペーパードライバーだったが、
松山でレンタカーを借りて、宇和島へ。

お寺は、海辺近くの見晴らしのいい場所にあった。
法要は午後2時からだったが、道に迷ったこともあり、
5分ほど前に到着。

  まずい、ご親戚の方々を待たせてしまったか…

しかし、そこには、ご住職さんしかいなかった。

そして、ご住職さんがおもむろにメモを読み始めた。

ご親戚の方々から伝言が二つあるという。
一つは、本日は、友引にあたるので、
法要の参列を控えさせていただきます、と。

  そんなことは知らなかった。
  親戚の方にしても、特にお寺さんにしても、
  私が連絡したとき、なんで、
  その日が友引にあたることを教えてくなかったんだ…

もう一つは、東京にお墓を建てたのであれば、
ここにある猪野家(もっとも分家)先祖代々のお墓を
東京に移してくれという。
律儀な地元のご親戚の方々が、私の代わりに、時たま、
お参りをしてくださっていたという。

実は、十年以上前、母が亡くなった時、
お墓の知識がまるでなかった私は、
東京にも猪野家の墓をつくってしまったのである。
もっとも、分かっていたとしても、
宇和島にいくのは大変なので、東京に建てたとは思うが。


そこで、ご住職さんには、私一人しかいないガランとしたお堂で、
百箇日法要をとり行っていただいた。
その後、一年前の東日本大震災が起きた時刻になると、
お寺の鐘を鳴らして、私も合掌。
それから、お墓の性根を断つためのお経をあげていただいた。


その後は、1月に私が連絡した親戚のご家族の方が、
私のために、地元で獲れたばかりの魚の刺身料理を
ふるまってくださった。
人生の中でもっともおいしい刺身だった。

  亡くなった父が私に食べさせたかったのだろう。

と、その親戚のご家族の方もおっしゃった。



そういえば、父は、亡くなる数日前、こんなことをつぶやいていた。


「また、御荘で釣りがしたいな…」



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両親の思い出 | 日記
2013.01.28(Mon):両親の思い出
夜間診療をしている病院に父を連れて行き、そのときは一時的に回復。

しかし、数日後、父はまた動けなくなった。

昼間に弟が来てくれて、車いすに父を乗っけて
病院に。

救急車で行ったわけではなく、
通常の診察という形で行ったので、
そのまま待合所で待機。

しかし、父の様子が尋常でないことを、
看護師さんが見て取ってくださり、
父に至急心臓マッサージ。
なんとか一命をとりとめた。

弟も周りにいた他の患者さんらも
父の異常に気がつかなかったくらいだから、
この看護師さんには本当に感謝である。

原因は肺炎であったが、主治医の先生からは、
心臓が弱っているので覚悟はしておいてほしい旨
告げられた。
しかし、この十年間、覚悟しておいてほしいということは、
いろいろな医師からいくどともなく告げられてきたので、
慣れっこになっていた。

ただ、”心臓が弱っている”という部分だけは、
いつもとは違っていたことに気がついてはいたが、
あまり気にとめていなかった。

それから、一か月程度入院が続いた。
私は、またもや、毎晩の見舞い。
ただ、正直、入院中は父の世話は病院がみてくれるので、
助かるし、何よりも安心だった。


いつも入院していたときとは違うことがいくつかあった。

まず、私が見舞いに行き、病室を出るとき、
父は、決まって、片手を上げて私に合図をしてくれた。
今までになかったことである。

そして、不思議なことが一つあった。

「足の爪を切ってくれないか。」

と、父から突然お願いされた。
今までヘルパーさんや看護師さんらに
ずっとやっていただいたことであり、
このとき初めてお願いされた。

子どものいない私にとって、
自分以外の爪を切るというのは初めてのことだったので、
最初はためらいがあったが、意外と簡単にできた。

最初で最後の爪切り



私が見舞い中も、父は一度心臓に異常をきたした。
そのときは、心臓マッサージでなんとか復活。
その間、看護師さんらは父の手を握りながら一生懸命に声をかけ、
父が気を失わないようにしてくださった。


そんなこともあったのに、病院側は、
肺炎は治まったので、療養型の病院に転院してくれという。
私は、点滴もまだはずれないような状態で転院しても大丈夫なのか
と聞くも、大丈夫だという。
入院の原因となった肺炎が治った以上、仕方がない。
私は、病院側の事情も知っていただけに、
強く転院に反対できなかった。


そして、いよいよ転院。
専用のワゴン車で、千葉県市川市の病院に移動。
平日午前10時ごろの下りだったのですいているかと思いきや、
渋滞にもあい、四十分程度かかった。
車中、父はずっと具合が悪そうだった。

新しい病院に着き、一通りの検査と手続きを終え、
もちろん、そのまま入院。
リハビリの方針やさらなる転院先のことなどは、
看護師長さんと一週間前に打ち合わせずみであった。

主治医となる先生からは、母の時のように、
万が一の場合は人工呼吸器をつけるか問われるも、
NO とこたえておいた。
ただ、心臓マッサージだけはお願いした。
なんたって、ここ一か月の間、
心臓マッサージで二度も命を救われたからである。


その後、病院を出て、元上司の方が入院されたというお話をきき、
そこから電車で一時間ほど離れた別の病院へ行き、お見舞いに。

それから、自宅に帰宅した途端、携帯が鳴った。


父が危篤





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両親の思い出 | 日記
2013.01.27(Sun):両親の思い出
母が亡くなってから、父が亡くなるまで
その期間は約10年半だった。

その間、父の体の状態は、
ヘルパーさんらの介護のおかげ、
そして、本人の努力によって
寝たきりから、杖をついて歩行ができる程度に回復。
しかし、入院をきっかけにまた悪化する
そんな繰返しであった。

ただ、介護保険制度の見直しで
介護認定が厳格化されたこともあり、
要介護度だけをみると、
5から3といったように回復基調にあった。


介護を必要としている方は病気にもなりやすい
ということは、直前のブログにも書いたが、
父の場合も、母が亡くなってからだけでも、
何度入退院を繰り返したか、数えきれない。

インフルエンザ、肺炎、緑内障、百日咳、サルコイドーシス等々、
他にもあったと思うが、同じ病状でも複数回入院したこともあり、
思い出せない。

父親がベッドからころげ落ち、
私が帰宅するまで数時間も床に横たわっていたということは
何度かあったが、
ある日、まったく動けなかったことがあった。

こういうときには非常に困るというとことも、
直前のブログで書いたが、
このときはさすがに救急車を呼んだ。

救急隊員から、かかりつけの病院に搬送が可能か
問い合わせるようにと電話で言われた。
自ら、父かかりつけの自宅近くの病院に問い合わせるも、
病院側は、確認するふうでもなく、間髪入れず、
病床がいっぱいだから来てくれるなという。

到着した救急隊員も自ら確認することなく、
別の病院を探す。
結局、救急車で15分くらいかかる病院に搬送された。

診断結果はインフルエンザ。

  インフルエンザでも体が動かなくことがあるんだ…

そして、このときも、肺に腫瘍のようなものがみえるので、
余命は数か月程度かもしれないという告知を受けるも、
結果として、その腫瘍のようなものは何でもなかった。

2~3日もすると、やはり、かかりつけの病院がいいだろう
ということで、自宅近くの病院に戻る。

ベッドはたくさん空いていた。
あの、数日前の
病床がいっぱいだから、
というのは何だったんだろう…


父は元気になるたびに
楽しみのグレードがアップしていく。
最初は、出前をとるだけでも楽しみにしていた。
それだけ病院食が口に合わなかったのであろう。

ある日の休日、私が出かけて、お昼1時前に戻ってくると
なんで正午に帰って来なかったんだと
えらいけんまくで怒られた。
それだけ楽しみにしていたのであろう。

次の楽しみは、近所の回転ずしに行くこと。
胃を摘出していたこともあり、ふだんは小食だったが、
お寿司だけは私と同じ量、
あるいはそれ以上食べることもある。
よほど好きだったのであろう。

ただ、若いとき、故郷の愛媛県宇和島で
一時漁師をしていたこともあり、
魚にはうるさい。
魚屋さんの前で、全然活き活きしてないじゃないか
と店頭に並んでいる魚にダメ出しをしたことがある。


その次の楽しみは、
自宅から健常者の足でも徒歩20分はかかる亀戸天神に行くこと。
よほど楽しみにしていたのか、夢にまででてきたそうである。
父と亀戸天神に行った帰り道、
女性用のブルゾンをサイズがぴったりだと買った。
以後、それを好んで着ていた。

そのブルゾンについては、
たまたま父が亡くなる日の昼にクリーニングに出し、
その数日後、告別式が始まる直前、
クリーニング屋さんに急がせてしまいながら引き取って
棺桶に入れたという思い出がある。


そして、一番元気だったときは、
いっしょに温泉にも行った。
二人でスイートルームに泊まった。
さすがに眺めがいい。
テレビのある部屋がいくつもあったが、結局、使ったのは一室のみ。
家族用の露天風呂も、
父は広い方がいいといって、未使用。
一般用の温泉に、杖をつきながら入った。
もちろん、私はつきっきりである。

ある意味ぜいたくな温泉旅行だった。


しかし、その後、まさしく山なりのように
父の活動範囲が狭まっていく。

入退院後動けなくなっては、
介護を受けては回復し、多少動けるようになる、
そんなことの繰返しではあったが、
その回復度合いがだんだん悪くなっていた。

そして、ある日、帰宅すると、

「隆、動けなくなった。」

と言われた。

私は、その時、またリハビリを受ければ
動けるようになると思っていた。

今までも、こういうことの繰り返しであったからである。



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両親の思い出 | 日記
2013.01.26(Sat):両親の思い出
退院直後の父の状態はというと、
当初はまったくの寝たきり状態。

病院でリハビリを受けたものの、
やはり自分一人になると
体を動かさなくなる。

しかし、私も弟も勤めている。

どこかの施設に入ってもらおうとも思ったが、
いろいろ問題があった。

まず、肝心の本人が嫌がった。
やはり、自宅がいいという。

また、ご存知の方も多いとは思うが、
施設が見つかったとしても都市部であれば
2~3年待ちといわれる。
あるいは、比較的すぐに入れるような所があったとしても、
数千万円もかかったりする。

そして、もっとも厄介だったのは、
医療と介護とは別であるという、至極、当然なこと。
介護を必要としている方が近くにいらっしゃる方には
分かっていただけると思う。

介護を必要としている方は、とにかく
いつ病気になってもおかしくないのである。
そして、問題なのは、
実際に病気になったときである。
寝たきりの方をどうやって病院に連れていくのか?

今日日、救急車を呼ぶのは気が引ける。
一万円近く払えば、専用のワゴン車で
寝たきりの方でも移動は可能だが、
救急の場合は利用できない。
タクシーかなんかで連れて行けたとしても、
病院の待合所でオムツを替えることなんか絶対無理!
赤ちゃんは小さいから、
専用の場所に連れていけばいい話なのだが…


そんな悩みを、当時の勤め先の関東信越国税局にいらした
医師の先生に打ち明けると、
病院に隣接し、かつ提携している介護施設を紹介してくださった。
しかも、比較的自宅から近い。

後日、その施設を訪問し、面接もしたが、
やはり、数年待ちと言われた。
そして、何よりも本人が嫌がった。

この頃になると、介護保険制度が実施されていたので、
利用することにした。
要介護度は、文句なしに最高重度の5。

ヘルパー派遣の会社の方と面接をして、
介護の内容や日程を相談し、契約。

ヘルパーの方々には、毎日、
朝6時、昼12時、夕方6時、そして夜中12時に
来ていただいた。
これだけ入っていただくと、
一社では、ヘルパーさんのやりくりができないということで、
複数の社と契約。

食事とかもそうだが、主な介護はオムツ交換。
しかも、ただのオムツ交換ではない。
下半身もしっかり拭いてくださる。
特に冬は手ぬぐいの温度調節が大変である。

さらに、赤ちゃんの場合と違うのは、
拭く面積が広いのみならず、一物が大きいこと。
もう見た目は風俗である。
一度、若い女性のヘルパーさんに来ていただいたが、
後日、自分が考えていたのとは違う、ということで
辞めるとの連絡が事務所にあったという。

もちろん、本人たちは、その気はまったくないので、
一物が大きくなることは決してない。

そんなわけだから、私には、正直できなかった。
早朝や深夜くらいは、
私自身がオムツ交換をできないということはなかったが、
父も嫌がったと思う。

お風呂は、別の機会に数日に一度の頻度で
専用の移動用の浴槽を持ってきてくださり、
体を洗っていただいたが、これも父は嫌がった。
オムツ交換とかもそうだが、
おそらくプライドが許さなかったんだと思う、


私はというと、買い物、洗濯、布団干し等々をしていた。
仕事から疲れて帰ると、後は風呂につかってくつろいだりして
そのまま寝たいというのが人情。
が、下手にコンビニとかがある時代、
買い物を頼まれたりするだけでも、正直、しんどい。

また、ヘルパーさんと常に仲良くできなかったらしい。
結構、些細なもめ事もあったようである。
そんな愚痴を、私は疲労困ぱいの状態で聞かされる。
これも、結構きつい。
ただ、父がストレスをさらにためこまないようにするためにも
必要なこと。


そして、何よりもきつかったのは、睡眠時間である。
自宅は元々公団住宅だったところなので、
父の部屋とはふすまで仕切られているだけである。
だから、ヘルパーさんが来られたときは、
自然と目が覚めてしまう。

つまり、就寝はヘルパーさんが帰られる夜中の1時以降、
そして、起床は自然と朝6時。
その間の夜中でも、
父が杖をついて数歩先のトイレに行こうとして倒れたときは、
抱きかかえるために起きることも。

中には、睡眠時間が4~5時間でも平気な方はいらっしゃるであろうが、
私は平気ではなかった。



さらに、こう申し上げては、大変失礼なのだが、
職場の理解が今ひとつなかったことも、つらかった。

小さなお子さんのいる職員への理解はみなさん非常にある。
帰宅後の子育てはさぞや大変だろう、
夜中は夜泣きをされるから睡眠もろくに取れないであろう等々
みなさんには子育ての経験があるので、
そこは理解でき、実際にことばもかけてあげることができる。

一方、働き盛りの世代で介護経験のある方は少ない。
だから、介護は大変だろうね、
ということばをかけられたことがほとんどないし、
おそらくそういう目で見られたこともなかったと思う。
それは、それで変に同情されなくて良かったのだが…

年に数回程度、早く帰宅しなくていいの、と
上司の方に声をかけていただいたくらいである。


介護の苦労は本当に理解されにくい。
かなり昔のことだが、
あるテレビ番組でこんな再現VTRを見たことがある。

近所の若い女の子が、親戚でもないのに、
体の不自由なおじいちゃんのために
手料理をもっていった。
そして、1~2時間程度おしゃべりをしたところで、
そのおじいちゃんに笑顔で挨拶して家を出る。
おじいちゃんも笑顔でこたえる。

しかし、実は、そのおじいちゃんには
同居の家族がいたのである。
家族のほうはというと、買ってきたお弁当を
これでも食べておいて、といって出かける。

この近所の女の子がすごくやさしくていい子である、
と評され、それはそれで異論はない。
その通りである。

かたや、この同居の家族はけしからんという体だった。
当時、その番組を見ていた私もそう思っていた。
ただ、そのときのゲストで女優の斉藤由貴さんが、
『でも、いっしょに暮らしているということだけでも
 大変なことなんですよね。』
といった旨のことをおっしゃっていた。

斉藤由貴さんが、自らの経験を踏まえていったことばなのか、
何気なくいったことばなのかは分からない。
そして、当時の私は、
  この人、なんてことを言うんだ、
と思ったくらいである。

しかし、今になって分かる。
その女の子は、とにかく1~2時間で
人の世話をするという環境・空間から抜け出せるのである。
同居の家族は逆である。
一時的に抜け出せるだけなのである。
むしろ、それが息抜きでさえある。

こういうことをおっしゃるヘルパーさんもいらした。
自分たちは、これで給料をもらってるからできる。
仕事だから介護ができると。
やっぱり、身内だと自分らもなかなかできないだろうと。

ヘルパーさんらのお給料が安いとはよくいわれているが、
本当にそう思う。
精神的にも肉体的にも
政治家なんかより重労働である。


こんな経験もある。

介護保険制度が厳格化され、
掃除や洗濯などの家事は家族が同居している場合は適用外、
そして、
家族が土日に勤めていない場合は、原則、週末の利用は不可、となった。

これ、介護で苦労したことがない者が考えたにちがいない。
なぜなら、保険制度の利用者は、
外の仕事で疲れたから、家でくつろぎたい、
家事で疲れたから、外出してリフレッシュしたい、
そういう思いで利用するからである。

財政が厳しい状況下、厳格化が必要なのは分かる。
しかし、この改正の仕方は、
人のことを機械かなんかとしかみなせない者の発想である。
これでは、ストレス発散の場が塞がれてしまう。
こんなことも理解できないのか…


一年前、職場でウトウトしてしまい、注意された。
のども乾いていないのにお茶を何杯もおかわりし、
尿意ももよおさないのに何度もトイレに行く、
そういう工夫をしていたにもかかわらずである。

仕事に身を入れず、眠いのを我慢することに傾注し続けるよりは、
数分でも目を閉じて頭をスッキリさせてから仕事にとりかかった方が
能率がぜんぜん違ってくるとの判断もあって。

悪いのは自分であり、注意されるのは当然である。
ただ、それでも若干、合点がいかない点もあった。

まず、父が亡くなって介護の必要がなくなったのに、
という点を強調されたことである。
人間、少なくとも私は、機械ではない。
起床時間、就寝時間を急に変えることはできなかった。
だから、父が亡くなって数か月後に異動した職場では、
居眠りをすることはなかった。

次に、注意をした方がヘビースモーカーだったということ。
この方は、私も含め非喫煙者が仕事をしている間に、
喫煙所でくつろぐことができる。
うらやましかった。


どうやら、形式を大切にする傾向がうかがえる。

税務大学校が新宿区にあった頃、
研修生のエレベーターの利用が禁止されていた。
教授ら先生方が利用されるためである。

私が研修生だったときのある夜、
研修課題を終わらせるために校舎に残っていたが、
帰る際、ついエレベーターを使用してしまった。
そして、一階に着いて降りると、
職員が待ちかまえていた。
こっぴどく叱られた。

が、注意されている内容を聞いていると、
この方、エレベーターの利用禁止の意味を
まったく理解されていないことが分かってくる。
禁止なものは禁止、
教授らが絶対利用するはずもない時間帯でも利用していけない、
というところの説明がまるでない。
つまり、説得力がなかったのである。

バスケットボールでも、3歩以上歩いてはいけないという
トラベリングを指導するにしても、
歩いちゃいけないものは、いけない、
と、指導するよりは、
オフサイドがない代わりに、トラベリングがある、
と、指導したほうが説得力がある。


すみません、
最後は、完全に話がそれてしまい、
言い訳とも愚痴ともつかないことを
こぼしてしまいました。




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両親の思い出 | 日記
2013.01.25(Fri):両親の思い出
療養型の病院に転院してから、
その病院でリハビリ指導してくださったおかげで
父は、まったくの寝たきり状態からは回復した。

そして、母が亡くなってから数か月が経ったこともあり、
頭のほうもしっかりしてきて、元に戻った。

ただ、トイレに行きたくなっても
すぐには歩行できないので、
オムツははずせない状態だった。


父の最初の病室と同室だった患者は、
食事の配膳など、父の面倒をかなり見てくれた。
だから、父は、その患者から、
二千円を貸してくれ、といわれ
貸したらしい。

九割九分貸したお金は戻ってこない。

そんな経験から、父が別の病室に移ったあと、
私は、父親の見舞いに行くたびに
二千円の返済を催促した。
が、のらりくらりとかわされた。

そして、案の定、とんずらされた。
病院に、退院後の住所をきいても、
知らないの一点張り。
個人情報ゆえ、当然といえば当然だが…


父は、そうめんが大好物だった。
しかし、病院では、そうめんは出ない。
だから、家でそうめんを茹でてから、
病院に持っていく。

新しい病室の同室の患者さんらは、
そんな私と父の姿を見て、うらやましがる。
他の患者さんのご家族の方は、めったにお見舞いに
来ることがなかったからだ。



母が亡くなって初めての元旦、

「おめでとうございます。」

といって、父がいる病室に入る。

「しっ」

と父に言われる。

父を含め、普段四人いる病室に三人しかいない。

たった今、
この病室で最高齢の方が亡くなられたということ。

その方は九十を超えられた方で、寝たきり状態だった。
父の見舞いに来た私にも時おり話かけてくださったが、
うまく聞き取れなかった。
私があいまいなお辞儀をすると、
決まって、横になりながらも片手を上げて
合図をしてくださった。

親族の方は一度たりとも見舞いには来ていなかった。
だから、この病室で体の自由がきく別の患者さんが
お世話をしていた。


『ちっ、あと30分後に死んでくれればよかったのに。』

元旦出勤の医師は、あと30分すれば交代で家に帰れたらしい。
心の中で思っても、他の患者さんに聞こえるほどの音量で
絶対に発してはならない言葉。
やはり、医師にも、常識という教育が必要か。
もちろん、立派なお医者さんも大勢いらっしゃるが…

その亡くなられた方の親族はというと、
その日、初めて病院に来たという。


そんな、よろしくない思い出のある病院も
退院することに。

杖をつきながら、病院をゆっくり出る。
同室でお世話になった別の患者さんが
わざわざ玄関までお見送りにきてくださった。

そして、いよいよタクシーに乗車。
父は、車窓から外を眺め、
一年以上ぶりのシャバの世界を堪能しているかのようだった。

母が生存中からずっと入院していたのだから。



仕事で疲れたあと、病院に毎日お見舞いに行くのも
正直、しんどかった。
そのたびに、父から、病院であったことの愚痴を聞かされる。
愚痴をこぼす本人にはストレス発散になるが、
私には、仕事のストレスの上に
さらにストレスがおおいかぶさってくる。

そして、私には発散の場がない。

ただ、そんなことは序の口だった。

これから、長い長い闘いが待ちかまえていようとは
頭では分かっているつもりだったが、
そのつらさまでは、知るよしもなかった。



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両親の思い出 | 日記
2013.01.21(Mon):両親の思い出
母は、今にでも目を覚ましそうな表情をしていて、
こわいくらいだった。

そうなってほしいという気持ちが
そう見えさせたのかもしれないが、
本当にそうだった。


私が赤ちゃんのとき、
オムツを替えてもらった直後、
気持ちよくなったのか、よくウンチをして
母を困らせたらしい。

まだ、幼稚園に通う前のある日の冬、
毛糸帽子をかぶるの忘れ、
どうしてもかぶりたいと
八百屋の前でだだをこねる私を
母は叱ってくれた。

それまで母が私に服を着せてくれていたのが、
ある日、自分で着なさい、という。
そして、またもや泣きじゃくる私を
母は困惑した表情で見守る。

  ここは、着せるわけにはいかない。

そんな母の顔を今でも覚えている。

補助輪なしの自転車がなかなか乗れず、
泣きながら練習する私に
母はずっと付き添ってくれた。

第二大島小学校二年生のとき、
公園で遊んでいて足の骨を折ってしまい
これまた泣きじゃくる私を
母はあわてて抱えて病院に運んでくれた。

第四大島小学校の卒業式のとき、
私とのツーショットを撮ってもらおうと
母は当時の同級生にお願いしてくれた。
でも、そのお願いする声が母の声とは気づかず、
私はそのまま教室に入ってしまった。
だから、母とのツーショット写真はない。
今でも非常に悔やまれる。

第二大島中学時代、
地元の ”大島クラブ”という野球チームに入る。
しかし、補欠だから試合に出られない。
だから、ユニホームはいつもきれい。
それでも、母は何もいわずに洗濯をしてくれた。

都立城東高校への入学が決まり、
母は体調が悪いのにいっしょに説明会に来てくれた。
そして、このときから、
毎朝、母は革靴を磨いてくれた。

上智大学に入って陸上を始めてからは
ランニングシャツやパンツを洗ってくれた。

トイレを磨いてくれた母、
ミシンをかけてくれた母
アイロンをかけてくれた母
お米を洗ってくれた母

私のために最後につくってくれた料理は、
焼き魚定食。
私のために、一体、何回料理をつくってくれたのだろうか?

献立を考えるだけでも大変だったはず。
それなのに、母が夕食の準備をしてくれた後に、
今晩は夕食は要らないと、平気で連絡していた私。


そんなことが一瞬にして
走馬灯のようによみがえってくる。

私は親不孝だった。
母より先に逝かなかったことだけを除いて。

だから、今は、その親不孝を払拭すべく、
毎晩、何十年前のその日に当たる母の姿を頭に思い描きながら、
小さな仏壇の前で手を合わせるようにしている。


今でも街中で親子連れをみるたびに、
自分もこうやって母にかわいがられたんだろうな、
と、ほほえましく思う。
自分は独身なので、もちろん子どもはいない。
自分で実際に子どもを育ててはじめて、
親に育ててもらったことのありがたみが分かるそうだが、
私も分かってきたような気がする。




気がつくと、病室には誰もいなかった。
そういえば、同室にいらっしゃっるはずの
もう一人の患者さんの姿がみつからない。
母が危篤になってから、別の部屋に移されたのだろうか。


本当は、泣きじゃくりたかった。

しかし、葬儀屋さんが、病室の外から私を見守ってくれている。
気を使って外で待機してくださっているのだろうが、
本当に気を使ってくださるのであれば、
母と二人きりにしてほしかった。

以来、母と二人きりになることは永遠になかった。



父は、相変わらず入院したままで、
自分一人で起き上がることもできない。
声をかけても返事をしてくれない。
ますます元気がなくなった感じだ。

だから、父が名目上の喪主で、
私が事実上の喪主となった。

葬儀中、私が病院から父を車いすで連れてくると、
ご親族をはじめとする参列者の方々が
すすり泣いてくださる。
それでも、父は短時間しか母のそばにいてあげられなかった。

  もう、お別れはすんでいるから、いいよ。

車いすの父がそう語っていたような気がした。



葬儀もひと段落し、落ち着いた後も、
父へのお見舞いは続く。
お見舞いといっても本当に反応がなく、
母の死に直面したこともあり、
本当にボケてしまったのか…


父のいる病室に向かう途中、
母の主治医だった医師に遭遇する。
私は「こんにちは」とだけ言っておいた。
なぜなら、
その医師が、若く可愛らしい女性ソーシャルワーカーを
くどいているところだったからだ。
そう、そのソーシャルワーカーさんも、
数週間前、父の転院のことで
母と相談した、あの方だったのだ。

その医師は、その女性をくどくのに一生懸命で、
そばを通る私にまったく気がつかない。
だから「こんにちは」の一言にもまったく無反応。
ソーシャルワーカーさんのほうも、くどかれて
明らかに迷惑そうな表情をしているが、
私の存在にさえ気がつかない。

  こんな人たちにお世話になっていたのか…

切なくなってきた。

母が入院した際、私は、この医師から、
危篤状態になったら人工呼吸器をつけるか、
問われていた。

経験のある方もおられるかと思うが、
答えは、No と言わせることになっている。
金銭的なことはもちろん、何よりも
人工呼吸器をはずすとき、
それは命を断つことを意味するので、
親族がつらい思いをするからである。

今でこそ、私もこのように理解できるが、
当時の私は、初めてきく話でよく理解できなかった。
その医師には、
とにかく母が苦しまないようにお願いします、といったが、
私のそのお願いから、No という答えを引き出すのに窮し、
きちんと説明してくれなかった。

結局、その前の母の主治医の先生にきちんと説明してもらう始末。


さらに、こんなこともあった。
私が入院中の母を見舞い、話しこんでいたとき、
この新しいほうの主治医は、病室の外から私を手招きする。

この主治医が病室の外で数分待っていたのは気がついていた。
そして、私と二人きりで話したがっているのも分かっていたし、
その内容も母のガンの進行具合ということも察しがついていた。

だからこそ、さっさと母の視界から消え去ってほしかった。
母が不安がるから。
それなのに、この主治医はそんなことも理解できず、
自分の都合のことばかり気にして、
しびれを切らして、私を手招きしたのである。

案の定、ガンの進行度の話であった。
そして、案の定、病室に戻ると、母にきかれた。

「何の話だったの?」

ガンの転移のことは母に隠していたので、こう答えてしまった。

「いろいろな薬を飲んでいるから、
 肝臓がちょっとはれ始めているんだって。」

しかし、これが数日後、悲劇を生むことになった。

亡くなる前日、背骨に転移していたガンが原因で
母は、腰に激痛がはしる、と訴えていたらしい。
もちろん、母は激痛の原因を知らなかったはずなのだが…

主治医は、痛みを和らげる薬の投与を提案したらしいが、
母は、薬の投与を拒んだという。
おそらく、数日前の私のことばを信用してのことであろう。
たしかに、その日、私がお見舞いに行ったとき、
母は、腰に多量の湿布を貼って眠っていた。


医師に一番求められるのは、もちろん腕である。ただ、
患者やその家族らに対する説明もきちんとできるような、
そして、患者やその家族らを思いやることができるような、
そんな教育も医学部ではしてもらいたいものである。

あと、気になるのが、看護師さんら職員の方々。
医師のことを、患者やその家族ら外部の者との会話の中でも、
先生とよぶ。

通常の社会では、外部の者との会話の中では、
社内の上司の名前は呼び捨てにする。
あの政治の世界でさえ、
秘書は、外の人との会話の中では、
お仕いする政治家を呼び捨てにする。
政治家本人と話すときでさえ代議士といい、
先生とはいわない。

医療社会は別なのかもしれないが、
ふつうの社会で暮らしていると、
やはり気になってしまうのは、私だけか…


数か月前、
父もガンが再発し、余命はあと数か月かもしれない、
そう言われたが、どうやらガンではなかったらしい。

実は、その後十年間、父はいろいろな病状で、いろいろな病院で
入退院を繰り返すことになるのだが、
そのたびに同じようなことを言われる。

結局、父が亡くなるまで
ガンは再発することはなかったのだが、
特に、肺に悪性腫瘍とまぎらわしい影が
映っていたようである。


そして、いよいよ父が療養型の病院に転院することが決まった。

これから、十年間以上、私の生活が一変しようとは、
このときは予想だにしなかった。




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2013.01.20(Sun):両親の思い出
本日は、税務署長会議。
関東信越国税局管内の署長さんが
さいたま市に集う。

会議が始まる前、
先日、出張時にお世話になった署長さんに
ご挨拶。

そして、お昼
カレー好きの私は、ポパイカレー大盛りをほおばる。

仕事に戻り、
ちょっと食べ過ぎたかなと
のんきに思っていたとき

突然、机の上の電話が鳴った。


『猪野隆さんですか?』

「はい、そうですが。」

『今度、病院にはいつ来られますか?』

「今日、仕事が終わったら行くつもりですが。」

『午前中は何でもなかったんですが、
 今、肺専門の先生に診てもらっていまして…』

「はっ?」

『早く来てもらえると…』

「要は、危篤状態ということですか?」

『はい。』

慌てて職場を飛び出た。

さいたま新都心駅に向かう途中、
出張帰りの下の階の職員に会う。

なぜか「お疲れ様」という
余裕があった。
このとき無理に笑顔をつくったことを
今でもはっきり覚えている。

電車がなかなか来ない。

その間に叔父や叔母に連絡する。
叔父は仕事中で自宅にいないことは
ちょっと考えれば分かるはず。
しかし、なぜか、何回も電話して、そして
何回も同じ内容の留守電を残していた。

亀戸駅に着くと、普段は歩いて帰宅するところ、
タクシーに飛び乗る。
運転手さんには、とにかく急いでいることは
伝わった。


急いでもらったが、遅かった。


母は上半身が起きた状態だった。
その横に、車椅子に乗った父が
母の手を握っていた。

周りでは、看護師さんらがすすり泣いていた。
そこには弟もいたが、間に合わなかったらしい。

父は、同じ病院に入院していたので、
看護師さんが機転をきかして
この病室に連れてきてくださったらしい。

  せめて、お父さんだけでもいっしょにいてくれたか…


このとき、父も母もことばを発せられるような状態ではなかった。
しかし、後日、父からこんな話を聞いた。


「私が死んでも、悲しまないで」

「あ~、分かった、分かった」

と、心の中で最後の会話を交わしたらしい。

そして、
心臓の鼓動が止んだあと、
母の眼から一筋の涙が流れた。


後日、看護師さんからうかがった話である。



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2013.01.19(Sat):両親の思い出
母が病院に行くといって
自宅を出てから1~2時間してからだろうか、
電話が鳴った。

病院からだった。

母が入院したという。

てっきり、病院から戻ってくるだろうと思っていた私には、
意外なことであった。

すぐに病院に駆けつけると、
新しい主治医が説明してくださった。
今までの優しい主治医さんは、他の病院に異動になったという。
医師は医師で頻繁に異動があるらしい。

『胃カメラで検査したんですが、
 胃はすごくきれいでした。』

  漢方薬のおかげか…

『しかし、肝臓に転移してます。』
といわれ、エコー写真を見せられた。

それでも、数週間はもつだろうと、
またもや、勝手に判断していた。


GWも終わり、再び、さいたま市の職場に通う。
ただ、宿舎には戻らず、東京の自宅から通うことにした。

そして、毎日、母と父とのお見舞いに行った。
母は、父の入院している病院に入院した。
その病院は自宅近くにあり、私としては、
正直、助かった。

父には、毎日、母の病状のことを説明するも、
相変わらず、聞いてくれているのかどうか
分からない。
本当にボケてしまったのか…


実は、およそ一か月前、父親方の親戚が
やはりガンで亡くなられた。
入院中の父は葬儀に参列できなかったため、
母と私が参列した。

そして、四十九日は、
母も入院したので、私一人で参列する予定だった。
私の勘違いか、先方の連絡ミスか、
本来の日より一週間早い日程を
あらかじめ母に伝えていてしまった。

そして、私自身も喪服に着替え
エレベーターに乗ろうとしたとき、
気がついた。
四十九日にしては早い。

案の定、親戚の方に確認すると、
一週間早かった。

そんな話を病室にいる母にすると、母は、

「こんなに暑くて、隆もさぞ大変だろうなって、
 ちょうど思っていたところだったのよ。」

そう母が言ってくれたと同時に、
5月なのに初夏のような陽気の空を
私といっしょに見上げてくれた。

父には、そんな話をしても反応がないような状態だったので、
というより、その親戚の方が亡くなられた事実も
理解していたかどうか定かではなかったので、
あえて言わなかった。

父のベッドは、窓から一番離れた廊下側にあった。


それから三日後、
仕事帰り、いつものように母の病室にも寄った。
そして、いつものように、同室の患者さんと
そのお見舞いの方にもご挨拶。

たしか、母とは、洗濯物の話をしたと思う。
病院でも有料で洗濯をしてくれてはいたので、
何を病院で洗濯してもらって、
何を自宅に持ち帰って洗濯をして、
何はまだ洗濯をしなくていいのか、
そんな選択の話をしていたと思う。

そして、私が病室を出るときに
母が私にかけてくれた最後のことば


「お疲れさま」


私が産まれたとき、
母が私にかけてくれた最初のことば
それは、何だったんだろう…



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2013.01.18(Fri):両親の思い出
札幌国税局徴収部から
さいたま市にある関東信越国税局調査査察部に異動。

母と暮らすと料理や家事で負担をかけてしまうと思い、
さいたま市の宿舎で暮らすようにした。
もちろん東京の自宅にはしょっちゅう戻っていた。
父も近くの病院で入院していることもあり。

母は毎日、父の見舞いに行っていたが、
父の介護から解放されたこともあり、
元気になっていた。


このころ、放射線治療が功を奏し、
肺のガンは小さくなっていた。
ただ、放射線治療により味覚が鈍くなったせいで、
母の食事量は増えていた。

そのためか、本当に若干だが、ふっくらし始めていた。
抗がん剤治療で抜けた髪の毛もすっかり元に戻り、
外見はおろか、普段の行動も元気だった頃に戻っていた。

それが数か月続き、そしてついに、
母の命は一年ももたないかもしれないと言われてから
一年が経った。

  このままいけば母のガンは治る。

そう、信じ切っていた。


年が明けて三月、
父の主治医の先生から、お伝えしたいことがある
との連絡を受け、母と二人で病院に行った。

どうやら、父のほうもガンが再発したらしい、と。
しかも、あと数か月…

  お母さんのみならずお父さんもか…

母も私もこの医師のことばを信じた。

自宅に戻ると、母は父に万が一がおきた場合にと、
いろいろな書類の在りかを教えてくれた。

それは、自分自身も覚悟した上でのことだったのかもしれない。


母は毎日、私もほぼ毎日、
父のところに見舞いに行っていた。
しかし、四月に入ると、
母も日に日に元気がなくなり始めてきていたのが分かった。

父の病室は二階だった。
母は当初、階段をのぼっていたが、
そのうち、エレベーターを使い始めた。

病室につくと、いつの日からか、
母自身も父のベッドの手すりに両腕をかけ、
自分の頭を下に向けてその両腕におき、
しばらく目をつむるようになっていた。

このころ、母の主治医の先生からは、
ガンが頭のほうに転移しているといわれ、
そう長くはないようなことを言われた。
ただ、具体的な期間は言われず、
主治医の先生のほうも言いようがなかったのかもしれない。

  お母さんもか…

それでも、数か月はもつ、
とかってに思っていた。


父はというと、
本当にボケてしまったかと思うくらい、
母と私が見舞いに来ても
反応がなかった。


そして、ゴールデンウイークに入ると、
病院から、
父の入院期間が長くなってきていたので、
療養型の病院へ転院するよう、いわれた。

療養型の病院とは、
医療を完了し病状が安定した後も、
介護を必要として退院することが難しく、
継続して療養が必要な場合など、
そうした長期入院が必要な患者を収容する
ことができる病院のことをいう。

ただ、家庭や社会生活への復帰を目的としたものなので、
いつまでも入院していられるわけではない。

そして、母と転院すべき病院を探すために
ソーシャルワーカーさんのところへ
相談しに行った。
そのソーシャルワーカーさんは、
可愛らしい感じの若い女性の方だった。


それから、数日後、
母が、おそらく生まれて初めて
私が起きても寝ていた。

母は毎朝5時ごろに起きて
家事を始めていた。

しかし、この日だけは違っていた。

それでも、しばらくして起きて、
家事を始めた。


すでに、ゴールデンウィークに入っていたこと、
母の体調がすぐれていなかったこと、そして
父も近くの病院で入院していたこともあり、
ここ数日、東京の自宅に居っぱなしだった。

母とテレビを見ていたとき、
ある登場人物がガンで亡くなるというドラマをやっていた。
しかし、あわててチャンネルを変えるのも変だったので、
そのまま見ていた。

今でこそ、ガンを告知するのが主流のようではあるが、
家庭の事情によっては、隠しているケース、そして
今回の母のように、転移は隠しているというケースもある。

だから、テレビのドラマとかで、
冷や冷やとさせられるシーンを見せられることがある。
こんな症状だったらガンなんだ、とか、
これだけ進行しているんだ、とか。


母は、洗濯機にかける前に必ずシャツの襟汚れを
石けんで直接こすって落としてくれる。
今でこそ、襟袖汚れ用の液体洗剤があるが、
そうした洗剤がない時代から続けてきた。

が、今日は、明らかにいつもの背中と違う。

母の代わりに洗濯機のボタンを押す。
責任感・使命感の強い母は、
それくらいのことしか私にさせなかった。
それでも、めったにさせない。

家事を一通り終えると、
ついに、母は、病院に行くと言い出した。

それから、母が二度とこの自宅に戻ることはなかった。



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両親の思い出 | 日記
2013.01.17(Thu):両親の思い出
十年以上も前のことである。

それは、弟の結婚式・披露宴が終わって
自宅に戻ってきたときだった。

昨日、弟が最後に自宅で食事をしていた椅子に
母がこしかけ、おもむろに口を開いた。

「肺に腫瘍があるみたい。」

多分、聞いたのはこれだけだった。
その時、
すでに杖をつかなければ歩けなくなっていた父が
そばで聞いていたのか、
今となっては思い出せない。

私は、そのころ、札幌国税局で、
税金を払ってくれない滞納者から
税金を取りたてる仕事をしていた。

そして、弟の結婚式があるということで、
東京に一時戻って来ていた。

札幌はもう、ガンガンに暖房をかけないと
生活できないくらい寒かった。
しかし、東京は、
夏の暑さがまだわずかに残っている気配さえ感じられた。


人間、こういうとき都合のいいようにかってに解釈するのだろうか…
このとき、心底、その腫瘍は何でもない、と思っていた。

父も胃ガンで摘出手術を受け、
数か月前に病院前で転び、
足を骨折したことがきっかけで
すでに体が不自由な状態。
その上、母までが…
そんなわけがない。

本当にそう信じ切っていた。


だから、札幌に戻ると、その母のことばを忘れていた。

ただ、一回だけ、母が実はガンだ、という夢を見て、
心臓をバクバクさせながら目を覚まし、
ホッとしたことがあった。

でも、その後も、母のあのことばを思い出すことはなかった。


年末、さすがに東京も寒くなっていたが、
札幌とは寒さの質が違っていた。
雪が積もっていないのも大きな違い。
東京ってこんなに歩きやすかったけ…


母の腫瘍のことについて
主治医の先生から、私一人で聞くことになった。
この期に及んでも楽観視していた私は、
待たされている間さえ、
どこかにのんきに電話をしていた記憶がある。

そして、ついに主治医の先生がいらっしゃる部屋へ。

まず、肺に腫瘍があることを見つけたきっかけから話が始まった。

体の悪かった母は、定期的に病院に通っていた。

そして、ある日、主治医の先生が母に
『久しぶりに胸のレントゲンでも撮ってみましょうか?』
といって、レントゲンを撮ってみたら…
ということであった。

胸のレントゲンも定期的には撮っていたようだが、
ちょうどタイミングが悪かったらしい。
その前に撮ったときは、おそらくレントゲンに腫瘍の影が映るかどうか
微妙な時期だったらしい。

そして、次に、ガンの進行段階として、
Ⅰ期~IV期があるという説明を受ける。

  どうせ、ガンじゃないんだから、さっさと説明してくれ!

本気でそう思っていた。

それから、母の肺から細胞を採取したことの説明をしてくださった。

この肺から細胞を採取する作業は、本人にはえらく辛いことらしい。
父もこの数年後、同様の検査を受けることになるのだが、
二度とごめんだ、というようなことを言っていた。

ガンがどれだけ進行しているのか、という判断は、
科学的・化学的方法かなんかを用いて行うのかと思いきや、
実は、顕微鏡でみた医師らの眼で行うらしい。
細胞の顔というか表情をみる、という。

そして、母の肺から採取した細胞の表情を顕微鏡で覗いてみると、
いい表情をしていると。
つまり、良性であると。

  だから、言わんこっちゃない!

それでも、主治医の先生は続けた

『私は、お母様にもう一度だけ細胞を採らせてください、
 とお願いしました。
 そして、もう一度、細胞を採りました。
 お母様は本当によく耐えてくださったと思います。』

肺の細胞を採取されるというのは、
それだけ本当に辛いことらしい。

『そしたら、ステージ・フォーでした。』

それでも、手遅れではない、
命は大丈夫なはず、
そう、思っていた。

『お父様もいっしょにおられまして、
 お二人とも手術を希望されていましたが、
 場所が悪いということで…』

『それから…
 ガンは既に背骨にまで転移してまして…
 おそらく、一年はもたないと思います。』

生まれて初めてヒザがガクガク震えた。

前にも後にも、ヒザが震えるという経験はこのときだけだ。
ヒザは本当に震える。
そして、止まらない。

『ここでは骨のレントゲンは撮れませんので、
 うまく説明して浦安の病院まで行っていただいて
 撮っていただいたのが、これです。』

といって、背骨のレントゲン写真を見せてもらった。
たしかに、黒い部分があったような気がしたが、
もう、頭の中は、パニクッテいた。


そもそも、肺の腫瘍の話を主治医からうかがうという時点で
覚悟はしなければならなかったはず。

そもそも、腫瘍の影がレントゲンで映っているというのは、
それだけガンが進行しているということ。

そんなことにも気がつかないほど、
母のガンのことは信じられないでいた。


部位が悪くて手術ができないというのも嘘で、
手遅れだったということである。

『転移しているということは、ご本人は言っていません。
 弟さんのご判断で…』

少しだけ、冷静になれた。

『手術以外の治療法には、抗がん剤治療と放射線治療とがあります。
 抗がん剤治療でも注射でする方法もありまして、
 お母様はお父様のお世話をしなければならないということで、
 注射による方法をご希望されていましたが、
 やはり、入院していただかないと…』

主治医の先生も、
私が札幌に勤めており、弟も電車の運転をしており、
母親以外に父につきっきりで面倒を見る者がいないということは
把握してくださっていた。

この時、今のような介護保険制度は始まっていなかった。


帰宅すると、母から、
「お医者さんから、聞いた?」
ときかれ、
「うん、だいぶ待たされたけど…」
と返事した。

時間がかかった理由を言っておかないと、
転移のことを気づかれると思った。


このころ、父の介護をしていたのは、母であった。
トイレの近い父は、真夜中に何度も母を起こす。
母の助けをかりないと、トイレに行けなかったからだ。

年末年始、別の部屋で眠っていた私もその度に目を覚ます。
ただ、そこは夫婦だけの世界、
自分はその子どものはずだったが、入れなかった。


正月休み明け、私は札幌に戻り、
ガンに効くという漢方薬を入手して東京に配送。
一か月あたり十数万円かかった。
しかも、当初は偽物をつかまされ、
追加注文をしようと連絡を試みるも不通。
雪道を歩いて輸入会社の住所に行ってみると、既に引き払った後。
最初の注文時、わざわざ札幌の宿舎まで来てもらったので、
つい、信じてしまった。

その後、本物を入手できるようになったが…
もちろん、偽物をつかまされていたことや値段のことは
母には内緒にしていた。

偽物にしても、本物にしても、
その漢方薬はえらく苦くてまずかったらしい。
一本当たり数十ml程度だったが、
飲むのが辛いくらいだったらしい。


二月になって、父が入院したという知らせを受けた。
父もいつ入院してもおかしくない病状だったが、
ベッドが空いたということ、
そして、何よりも
父の世話をしていた母にも
抗がん剤治療を受けるための入院が必要だったからである。

なお、後日談であるが、その十数年後、
私が選挙に落選して、時間もできたので部屋の掃除をしていると、
まさに、このときの入院時に病院に支払った保証金の受領書が出てきた。
そこには、母が書いたと思われる父の名があった。
その受領書をとっておきたい気持ちもあったが、
一円でもおしかった私は、病院に行って、その保証金を返金してもらった。
そのとき、今度は私が、受領書の裏面に
亡くなったはずの父の名を領収人として書いた。
両親からの贈り物だと、自分に言い聞かせながら。

さて、抗がん剤治療のことだが、
頭の毛が抜けるのはもちろん、
おう吐するなど本当に苦しいことらしい。

だから、その人のガンに効く抗がん剤選びが
非常に重要になってくる。

しかし、最初の治療時に投与した抗がん剤が
効かなかった。
だから、しばらく期間をおいて二度目の抗がん剤治療。
二回目は効いたらしい。
ただ、ガンは小さくなったものの、消えはしなかった。

本当に抗がん剤治療は辛いらしく、
この後、母は、
二度とあんな思いまでして治療は受けたくない
といって、抗がん剤治療を受けることはなかった。

私が、二月に東京に戻ると、
母はわざわざ一時退院をして
私のために手料理をふるまってくれた。
たしか、一回目の抗がん剤治療の後だったと思う。


その後、抗がん剤治療を終えた母は退院し、
放射線治療のため、
電車で30分ほどかかる病院に通い始めていた。

その後父は入退院を繰り返し、
だんだん元気がなくなっていくような気がした。


そして、七月、国税当局の異動期となった。
私は、両親の事情で在京勤務にしてもらうよう、
人事にお願いした。
そして、さいたま市にある
関東信越国税局調査査察部への異動となった。



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