両親の思い出 | 日記
2013.01.31(Thu):両親の思い出
私には、人の命を救うまでの力はなかったが、
延ばす力はあったのか、
祖母は、私が到着しからも数日間、小康状態を保っていた。

私が到着したときに
心配そうに見守ってくださった親戚の方々も
三々五々帰宅される。
ただ、いつ逝ってもおかしくない状態であることには
変わりなかったので、
頻繁にこの施設には来てくださる。

私が到着したときにはいらっしゃらなかった親戚の方々も
来てくださるようになった。
全員ではないが、どなたが、父とはどういう関係に当たるのか、
というのが段々分かってきた。
お顔も識別できるようになってきた。

親戚の方々は、ご自宅が比較的近いので
家にずっといてもよさそうな感じだったが、
祖母のいる部屋にしょっちゅう来てくださる。

私はというと、ソファーの上で横になるといった程度だが、
施設に泊めていただいたりした。
お風呂は、親戚の家でお世話になっていた。

次第に、私も親戚の方々も、疲労の色が段々濃くなってきた。

いつしか、
いつ逝ってくれるのかしら、
という発言も、時おり聞こえるようになった。

職員の方が
『ご本人は、耳はしっかりしているので、』
と、注意する。


そういう私も疲労はピークに達していた。
今度こそは危ないと、
夜中にソファーの上で横になっていてもたたき起こされ、
祖母の横につくも、状態がまた落ち着く。
そんなことの繰返しであった。

施設に常駐している医師の診察も段々おざなりになり、
親戚からは苦情が出る始末。


私は、いったん東京のほうに戻ったほうがいいか悩んでいた。

職場では、祖母が危篤だといって行ったのに、
いったい、いつまで休んでいるんだ、
と、間違いなく思われている。

一方、こちらでは、
祖母が依然危ない状態であることには変わりなく、
親戚の方々も、自分らがこの部屋にいるのに、
一番近い親戚のお前がいなくなってどうする、
という、雰囲気であった。

まさに葛藤。

結局、いったん帰京することにした。

近くのバス停まで親戚の方が車で送ってくださった。

行ったり来たりで大変ですね、
という言葉をかけてくださった。

バスに乗って宇和島駅へ。
そして、そこから松山駅行の列車に乗る。
今度は自由席で。


八幡浜駅付近だったと思う。

人生初、車内放送で呼び出しを受ける。
電話がほしいと。

電話をすると、祖母が今度こそ危ないと。

慌てて、今来たばかりの道を戻る。

  あのおっしゃりかたからすると、今度こそだめだろう。
  多分、間に合わない。
  なんで、あの場にい続けなかったんだ…

そんな後悔した思いで戻った。

が、到着すると、私が数時間前に部屋を出たときと
なんら様子は変わっていなかった。
外が既に暗くなっていたことを除いて。

祖母ももちろん、まだ意識はあった。

  結局、最後までここにいろ、ということか…



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両親の思い出 | 日記
2013.01.30(Wed):両親の思い出
母が亡くなって、九か月ほど経ったとき、
職場の電話がいつものように鳴った。

しかし、電話先の相手はいつもと違っていた。

『自在園ですが。猪野隆さんですか?』

「はい、そうです。」

でも、馴染みがなかったわけではなかった。
そこは、特別養護老人ホームで、
父方の祖母がお世話になっている施設。
ここ15年ほど、一か月に一回のペースで、
その施設から、お便りが届いていたからだ。

でも、そこの職員の方とお話しをするのは
初めてであった。

『おばあちゃんのことなんですが、
 血圧が段々下がってきていて、
 かなり危険な状態です。』

自宅に連絡をしても、寝たきりの父しかいないので、
つながらなかったのであろう。

「分かりました。すぐに行きます。」

すぐに行くとはいっても、そこは、
愛媛県南宇和郡、数時間で行けるような距離ではない。
おそらく、今から行っても間に合わない…

しかし、部長に事情をお話しし、まずは東京の自宅へ。
自宅に着くやいなや、父にも事情を話す。
電話をいただいてから1時間半ほど経っていたので
自在園に連絡し、これから東京を発つ旨伝えた。

職員の方は、仕事中に東京からわざわざ来るのも大変ですね、
といったことばをかけてくれた。
祖母の様子が先ほどよりは落ち着いているということで、
父からは、現地には宿泊施設なんかないぞ、といわれつつも、
一応、数泊分の身支度をする。

羽田空港で正規料金の航空チケットを購入し、まずは松山空港へ。
私は、十年ほど運転ご無沙汰のペーパードライバーだったので、
松山駅から宇和島駅までディーゼル列車に乗る。
四国の列車は、電化されていないところがほとんどだった。

松山駅で指定席券を購入すると、駅員さんは、
指定席が埋まりそうだったので、あなたは運がいい、
みたいなことをおっしゃる。

列車の中に入ると、たしかに、指定席はいっぱいだったが、
自由席はガラガラだった。


宇和島駅に着いたときは、
既にバスも走っていない時間だった。
自在園のある南宇和郡の御荘は、
ここから車でさらに一時間ほどかかる所。

そこで、タクシーに乗る。
宇和島には二十年以上ぶりに来るが、
断片的な光景は覚えているものの、
地理や交通のことまでは全然覚えていない
といったお話しを運転手さんにする。

運転手さんは、
御荘では真珠がよく採れ、バブルのころは、
宇和島駅からタクシーを利用する漁師さんが多く、
料金のほかにもチップとして一万円はもらっていた
というお話しをする。

ライトの先にいつ幽霊がとび出てきてもおかしくないような
くねくねした暗い夜道をひたすら走る。
タクシーのメータが着実に上がるにつれ、
運転手さんはますます饒舌になり、
私はというと、だんだん無口になる。

そのメータが一万円ちょっと超えたところで、
自在園に到着。
昼に電話をくださった職員の方が、
わざわざ玄関まで出迎えてくださった。

電話の声からすると、もっと年配の方かと思っていたが、
きれいで若い女性の方だった。
この施設で役職をもつ”Hさん”という。


中に入ると、そこは幼稚園と見間違うような雰囲気。
幼児らが心をこめて描いた絵が
ところどころに貼ってある。
ただ、薄暗くて、ひっそりしているところが、
幼稚園らしくはなかった。

祖母のいる部屋に入ると、そこには、
二十年以上前、お会いしたことはあるはずだが、
初めてお会いするような親戚の方々が
ずらりと並んでおられた。

  どなたが、どなたか、まるで分からん…

ただ、間に合ったようだ。
母のときは、1時間でかけつけても間に合わなかったが、
今回は、7~8時間かけて来たが間に合った。

『隆さんが、東京から来てくれたわよ。』

”Hさん”がまだ逝ってはダメだという意味も込めて
大声で話かける。

祖母はすでに眼が見えない状態ではあったが、
微笑んでくれたような気がした。


私のすぐ後には、
タンをつまらせ、それこそ数十分おきに、
職員の方から吸引してもらっている
見ず知らずのおじいちゃんがいた。
もちろん、24時間体制で。


『隆さんが来てくれたというのに、
 元気にならないわね。』

『まだ、誰か他に待っている人がいるのかしら。』

親戚の方々が口ぐちにおっしゃる。


  私には、人の命を救うまでの力はない。



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両親の思い出 | 日記
2013.01.29(Tue):両親の思い出
病室に入ると、
どう素人目に見てもすでに魂が抜けていると分かるのに、
懸命の心臓マッサージを受けている父の姿があった。

また、間にあわなかった。
やはり、親不孝だったようだ。

「もう、いいです。」

との声を発したときが、人工的な死亡時刻となった。

万が一のときも心臓マッサージだけは止めないでくれ
とお願いしたことを後悔した。
私が到着したときもそうだったが、
看護師さんらは一時間以上も、もちろん交代でだが、
一生懸命に心臓マッサージをしてくださった。

父は、下痢をしたのが分かり、オムツを交換してもらうため、
ナースコールを押したらしい。
そして、オムツ交換をしてもらっている間にも
みるみる様態が悪化していき、
ついには心臓が止まったということだ。

つまり、その下痢は内臓の機能停止への第一歩だった。

母のときと異なり、親族にも看取られず、
心臓マッサージを受けながら
父はどういう思いで他界したのであろうか?
転院したその日に、見ず知らずの土地で…


父が亡くなった翌朝、
ガタン
と部屋のタンスの音がした。
父が戻ってきたようだった。
今、現在も、部屋には
父と母がいるような気がする。

選挙に落ちて無職になってしまったある日、
そのタンスの観音扉が開いていた。
自宅の鍵は、今開けたばかりだから
空き巣が入ったわけではない。

駅三つ離れたところに奥さんと住んでいる弟も、
お線香をあげに、時おりこの部屋に来るので、
弟に開けた覚えがあるかときいても、知らないという。

ある夜、弟が急に部屋に飛び込んできて、いう。

「もしかして、お金があるかもしれない!」

タンスの中に十数万円あった。
父は生前へそくりをしている話をしていたらしい。
弟も、地下鉄に乗っていて、ふと思い出したという。

そのタンスは父が寝ていたベッドの真横にあるのだが、
そういえば、父は、生前、
たまにそのタンスの中をのぞきこんでいた。
きっと、母の形見でも見ているのかと思っていたが…

どうやら、私が鈍感だったがために、
弟に足労をかけてしまったようである。



父が亡くなった日の昼、
転院の手続きもすませ、私が病室から出ようとした際、

「入れ歯を持ってきてくれ」

と父にお願いされていた。
そこで、持ってきた入れ歯を父の口に入れる。

母の場合と異なり、なんとも素っ気ない最期のことば。


そういえば、私が産まれた時も素っ気なかったらしい。
父は、私が産まれた瞬間、パチンコをしていた。
玉が出ていたので止められなかったという。
おそらく、病院にはいられなかったからなのであろうが…


これも母の場合と異なり、数十分して葬儀屋さんが登場、
というわけではなかった。
この日に来たばかりの病院は、千葉県なので、
東京の葬儀屋さんとは提携していないという。

そこで、母のときにお世話になった葬儀屋さんに連絡し、
遺体を運んでもらった。



父とは、正直、あまりいい思い出がない。

ふつうの子は、正月を楽しみに待つ。
しかし、私は、小学生の間は、
正月がくるのが嫌で嫌でたまらなかった。

父は、生まれながらの芸術家で、
書道、絵画等の美術、詩吟などに長けていた。
職業は地方公務員だったが。

だから、学校の宿題だった書き初めには、
非常にうるさかった。
まず、墨汁だが、市販ものは許されず、
硯からすらされた。
だから、他の同級生の書き初めと比べ、
私の字は決まって薄かった。

泣き虫の私は、泣きながら
何時間もかけて書いていた。
その中から父の眼に適ったものを学校に提出したのだが、
嫌々書いたものだから、躍動感のない字だったとは思う。


私は、小学生なのに、プロレスを好んで見るようになっていた。
それは、テレビが一家に一台の時代だったからだ。

当時の学校では、”太陽にほえろ”の話でもちきりだった。
特に、松田優作扮するジーパン刑事が
『なんじゃ、こりゃ』
という名セリフを残して殉職したときは。

だから、私も ”太陽にほえろ”を見たかったので、
あのテーマ音楽とともに出てくる夕陽を見ていると、父が

「こんなもの、子どもがみるもんじゃない」

といわれ、
アントニオ猪木が死闘を繰り広げる新日本プロレス、
そこにチャンネルを変えられたからである。
金曜夜8時の出来事であった。


母が亡くなって、父と二人暮らしになってからの
思い出のほうがまともなようである。

父と亀戸天神に行った帰り道、
買ったばかりの女性用ブルゾンを早速着ていた父が
突然の強風におあられ、思わず私の肩をつかむ。

父のほうから私を頼った唯一の瞬間だった。



お通夜と告別式は東京で行ったが、
父の生まれ故郷は、
愛媛県南宇和郡御荘町(現愛南町)なので、
百箇日法要は、その故郷で行うことにした。
その日は、あの東日本大震災からちょうど一年後の
3月11日だった。

父が亡くなって年が明けた1月に地元のお寺さんに連絡し、
父と幼なじみで、父のいとこに当たる親戚の方にも連絡した。


その場所は、宇和島駅からでも
車でさらに一時間ほどかかる場所。
電車やバスで行くには非常に不便だった。
そこで、私は、
二十年ほど運転していないペーパードライバーだったが、
松山でレンタカーを借りて、宇和島へ。

お寺は、海辺近くの見晴らしのいい場所にあった。
法要は午後2時からだったが、道に迷ったこともあり、
5分ほど前に到着。

  まずい、ご親戚の方々を待たせてしまったか…

しかし、そこには、ご住職さんしかいなかった。

そして、ご住職さんがおもむろにメモを読み始めた。

ご親戚の方々から伝言が二つあるという。
一つは、本日は、友引にあたるので、
法要の参列を控えさせていただきます、と。

  そんなことは知らなかった。
  親戚の方にしても、特にお寺さんにしても、
  私が連絡したとき、なんで、
  その日が友引にあたることを教えてくなかったんだ…

もう一つは、東京にお墓を建てたのであれば、
ここにある猪野家(もっとも分家)先祖代々のお墓を
東京に移してくれという。
律儀な地元のご親戚の方々が、私の代わりに、時たま、
お参りをしてくださっていたという。

実は、十年以上前、母が亡くなった時、
お墓の知識がまるでなかった私は、
東京にも猪野家の墓をつくってしまったのである。
もっとも、分かっていたとしても、
宇和島にいくのは大変なので、東京に建てたとは思うが。


そこで、ご住職さんには、私一人しかいないガランとしたお堂で、
百箇日法要をとり行っていただいた。
その後、一年前の東日本大震災が起きた時刻になると、
お寺の鐘を鳴らして、私も合掌。
それから、お墓の性根を断つためのお経をあげていただいた。


その後は、1月に私が連絡した親戚のご家族の方が、
私のために、地元で獲れたばかりの魚の刺身料理を
ふるまってくださった。
人生の中でもっともおいしい刺身だった。

  亡くなった父が私に食べさせたかったのだろう。

と、その親戚のご家族の方もおっしゃった。



そういえば、父は、亡くなる数日前、こんなことをつぶやいていた。


「また、御荘で釣りがしたいな…」



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両親の思い出 | 日記
2013.01.28(Mon):両親の思い出
夜間診療をしている病院に父を連れて行き、そのときは一時的に回復。

しかし、数日後、父はまた動けなくなった。

昼間に弟が来てくれて、車いすに父を乗っけて
病院に。

救急車で行ったわけではなく、
通常の診察という形で行ったので、
そのまま待合所で待機。

しかし、父の様子が尋常でないことを、
看護師さんが見て取ってくださり、
父に至急心臓マッサージ。
なんとか一命をとりとめた。

弟も周りにいた他の患者さんらも
父の異常に気がつかなかったくらいだから、
この看護師さんには本当に感謝である。

原因は肺炎であったが、主治医の先生からは、
心臓が弱っているので覚悟はしておいてほしい旨
告げられた。
しかし、この十年間、覚悟しておいてほしいということは、
いろいろな医師からいくどともなく告げられてきたので、
慣れっこになっていた。

ただ、”心臓が弱っている”という部分だけは、
いつもとは違っていたことに気がついてはいたが、
あまり気にとめていなかった。

それから、一か月程度入院が続いた。
私は、またもや、毎晩の見舞い。
ただ、正直、入院中は父の世話は病院がみてくれるので、
助かるし、何よりも安心だった。


いつも入院していたときとは違うことがいくつかあった。

まず、私が見舞いに行き、病室を出るとき、
父は、決まって、片手を上げて私に合図をしてくれた。
今までになかったことである。

そして、不思議なことが一つあった。

「足の爪を切ってくれないか。」

と、父から突然お願いされた。
今までヘルパーさんや看護師さんらに
ずっとやっていただいたことであり、
このとき初めてお願いされた。

子どものいない私にとって、
自分以外の爪を切るというのは初めてのことだったので、
最初はためらいがあったが、意外と簡単にできた。

最初で最後の爪切り



私が見舞い中も、父は一度心臓に異常をきたした。
そのときは、心臓マッサージでなんとか復活。
その間、看護師さんらは父の手を握りながら一生懸命に声をかけ、
父が気を失わないようにしてくださった。


そんなこともあったのに、病院側は、
肺炎は治まったので、療養型の病院に転院してくれという。
私は、点滴もまだはずれないような状態で転院しても大丈夫なのか
と聞くも、大丈夫だという。
入院の原因となった肺炎が治った以上、仕方がない。
私は、病院側の事情も知っていただけに、
強く転院に反対できなかった。


そして、いよいよ転院。
専用のワゴン車で、千葉県市川市の病院に移動。
平日午前10時ごろの下りだったのですいているかと思いきや、
渋滞にもあい、四十分程度かかった。
車中、父はずっと具合が悪そうだった。

新しい病院に着き、一通りの検査と手続きを終え、
もちろん、そのまま入院。
リハビリの方針やさらなる転院先のことなどは、
看護師長さんと一週間前に打ち合わせずみであった。

主治医となる先生からは、母の時のように、
万が一の場合は人工呼吸器をつけるか問われるも、
NO とこたえておいた。
ただ、心臓マッサージだけはお願いした。
なんたって、ここ一か月の間、
心臓マッサージで二度も命を救われたからである。


その後、病院を出て、元上司の方が入院されたというお話をきき、
そこから電車で一時間ほど離れた別の病院へ行き、お見舞いに。

それから、自宅に帰宅した途端、携帯が鳴った。


父が危篤





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両親の思い出 | 日記
2013.01.27(Sun):両親の思い出
母が亡くなってから、父が亡くなるまで
その期間は約10年半だった。

その間、父の体の状態は、
ヘルパーさんらの介護のおかげ、
そして、本人の努力によって
寝たきりから、杖をついて歩行ができる程度に回復。
しかし、入院をきっかけにまた悪化する
そんな繰返しであった。

ただ、介護保険制度の見直しで
介護認定が厳格化されたこともあり、
要介護度だけをみると、
5から3といったように回復基調にあった。


介護を必要としている方は病気にもなりやすい
ということは、直前のブログにも書いたが、
父の場合も、母が亡くなってからだけでも、
何度入退院を繰り返したか、数えきれない。

インフルエンザ、肺炎、緑内障、百日咳、サルコイドーシス等々、
他にもあったと思うが、同じ病状でも複数回入院したこともあり、
思い出せない。

父親がベッドからころげ落ち、
私が帰宅するまで数時間も床に横たわっていたということは
何度かあったが、
ある日、まったく動けなかったことがあった。

こういうときには非常に困るというとことも、
直前のブログで書いたが、
このときはさすがに救急車を呼んだ。

救急隊員から、かかりつけの病院に搬送が可能か
問い合わせるようにと電話で言われた。
自ら、父かかりつけの自宅近くの病院に問い合わせるも、
病院側は、確認するふうでもなく、間髪入れず、
病床がいっぱいだから来てくれるなという。

到着した救急隊員も自ら確認することなく、
別の病院を探す。
結局、救急車で15分くらいかかる病院に搬送された。

診断結果はインフルエンザ。

  インフルエンザでも体が動かなくことがあるんだ…

そして、このときも、肺に腫瘍のようなものがみえるので、
余命は数か月程度かもしれないという告知を受けるも、
結果として、その腫瘍のようなものは何でもなかった。

2~3日もすると、やはり、かかりつけの病院がいいだろう
ということで、自宅近くの病院に戻る。

ベッドはたくさん空いていた。
あの、数日前の
病床がいっぱいだから、
というのは何だったんだろう…


父は元気になるたびに
楽しみのグレードがアップしていく。
最初は、出前をとるだけでも楽しみにしていた。
それだけ病院食が口に合わなかったのであろう。

ある日の休日、私が出かけて、お昼1時前に戻ってくると
なんで正午に帰って来なかったんだと
えらいけんまくで怒られた。
それだけ楽しみにしていたのであろう。

次の楽しみは、近所の回転ずしに行くこと。
胃を摘出していたこともあり、ふだんは小食だったが、
お寿司だけは私と同じ量、
あるいはそれ以上食べることもある。
よほど好きだったのであろう。

ただ、若いとき、故郷の愛媛県宇和島で
一時漁師をしていたこともあり、
魚にはうるさい。
魚屋さんの前で、全然活き活きしてないじゃないか
と店頭に並んでいる魚にダメ出しをしたことがある。


その次の楽しみは、
自宅から健常者の足でも徒歩20分はかかる亀戸天神に行くこと。
よほど楽しみにしていたのか、夢にまででてきたそうである。
父と亀戸天神に行った帰り道、
女性用のブルゾンをサイズがぴったりだと買った。
以後、それを好んで着ていた。

そのブルゾンについては、
たまたま父が亡くなる日の昼にクリーニングに出し、
その数日後、告別式が始まる直前、
クリーニング屋さんに急がせてしまいながら引き取って
棺桶に入れたという思い出がある。


そして、一番元気だったときは、
いっしょに温泉にも行った。
二人でスイートルームに泊まった。
さすがに眺めがいい。
テレビのある部屋がいくつもあったが、結局、使ったのは一室のみ。
家族用の露天風呂も、
父は広い方がいいといって、未使用。
一般用の温泉に、杖をつきながら入った。
もちろん、私はつきっきりである。

ある意味ぜいたくな温泉旅行だった。


しかし、その後、まさしく山なりのように
父の活動範囲が狭まっていく。

入退院後動けなくなっては、
介護を受けては回復し、多少動けるようになる、
そんなことの繰返しではあったが、
その回復度合いがだんだん悪くなっていた。

そして、ある日、帰宅すると、

「隆、動けなくなった。」

と言われた。

私は、その時、またリハビリを受ければ
動けるようになると思っていた。

今までも、こういうことの繰り返しであったからである。



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両親の思い出 | 日記
2013.01.26(Sat):両親の思い出
退院直後の父の状態はというと、
当初はまったくの寝たきり状態。

病院でリハビリを受けたものの、
やはり自分一人になると
体を動かさなくなる。

しかし、私も弟も勤めている。

どこかの施設に入ってもらおうとも思ったが、
いろいろ問題があった。

まず、肝心の本人が嫌がった。
やはり、自宅がいいという。

また、ご存知の方も多いとは思うが、
施設が見つかったとしても都市部であれば
2~3年待ちといわれる。
あるいは、比較的すぐに入れるような所があったとしても、
数千万円もかかったりする。

そして、もっとも厄介だったのは、
医療と介護とは別であるという、至極、当然なこと。
介護を必要としている方が近くにいらっしゃる方には
分かっていただけると思う。

介護を必要としている方は、とにかく
いつ病気になってもおかしくないのである。
そして、問題なのは、
実際に病気になったときである。
寝たきりの方をどうやって病院に連れていくのか?

今日日、救急車を呼ぶのは気が引ける。
一万円近く払えば、専用のワゴン車で
寝たきりの方でも移動は可能だが、
救急の場合は利用できない。
タクシーかなんかで連れて行けたとしても、
病院の待合所でオムツを替えることなんか絶対無理!
赤ちゃんは小さいから、
専用の場所に連れていけばいい話なのだが…


そんな悩みを、当時の勤め先の関東信越国税局にいらした
医師の先生に打ち明けると、
病院に隣接し、かつ提携している介護施設を紹介してくださった。
しかも、比較的自宅から近い。

後日、その施設を訪問し、面接もしたが、
やはり、数年待ちと言われた。
そして、何よりも本人が嫌がった。

この頃になると、介護保険制度が実施されていたので、
利用することにした。
要介護度は、文句なしに最高重度の5。

ヘルパー派遣の会社の方と面接をして、
介護の内容や日程を相談し、契約。

ヘルパーの方々には、毎日、
朝6時、昼12時、夕方6時、そして夜中12時に
来ていただいた。
これだけ入っていただくと、
一社では、ヘルパーさんのやりくりができないということで、
複数の社と契約。

食事とかもそうだが、主な介護はオムツ交換。
しかも、ただのオムツ交換ではない。
下半身もしっかり拭いてくださる。
特に冬は手ぬぐいの温度調節が大変である。

さらに、赤ちゃんの場合と違うのは、
拭く面積が広いのみならず、一物が大きいこと。
もう見た目は風俗である。
一度、若い女性のヘルパーさんに来ていただいたが、
後日、自分が考えていたのとは違う、ということで
辞めるとの連絡が事務所にあったという。

もちろん、本人たちは、その気はまったくないので、
一物が大きくなることは決してない。

そんなわけだから、私には、正直できなかった。
早朝や深夜くらいは、
私自身がオムツ交換をできないということはなかったが、
父も嫌がったと思う。

お風呂は、別の機会に数日に一度の頻度で
専用の移動用の浴槽を持ってきてくださり、
体を洗っていただいたが、これも父は嫌がった。
オムツ交換とかもそうだが、
おそらくプライドが許さなかったんだと思う、


私はというと、買い物、洗濯、布団干し等々をしていた。
仕事から疲れて帰ると、後は風呂につかってくつろいだりして
そのまま寝たいというのが人情。
が、下手にコンビニとかがある時代、
買い物を頼まれたりするだけでも、正直、しんどい。

また、ヘルパーさんと常に仲良くできなかったらしい。
結構、些細なもめ事もあったようである。
そんな愚痴を、私は疲労困ぱいの状態で聞かされる。
これも、結構きつい。
ただ、父がストレスをさらにためこまないようにするためにも
必要なこと。


そして、何よりもきつかったのは、睡眠時間である。
自宅は元々公団住宅だったところなので、
父の部屋とはふすまで仕切られているだけである。
だから、ヘルパーさんが来られたときは、
自然と目が覚めてしまう。

つまり、就寝はヘルパーさんが帰られる夜中の1時以降、
そして、起床は自然と朝6時。
その間の夜中でも、
父が杖をついて数歩先のトイレに行こうとして倒れたときは、
抱きかかえるために起きることも。

中には、睡眠時間が4~5時間でも平気な方はいらっしゃるであろうが、
私は平気ではなかった。



さらに、こう申し上げては、大変失礼なのだが、
職場の理解が今ひとつなかったことも、つらかった。

小さなお子さんのいる職員への理解はみなさん非常にある。
帰宅後の子育てはさぞや大変だろう、
夜中は夜泣きをされるから睡眠もろくに取れないであろう等々
みなさんには子育ての経験があるので、
そこは理解でき、実際にことばもかけてあげることができる。

一方、働き盛りの世代で介護経験のある方は少ない。
だから、介護は大変だろうね、
ということばをかけられたことがほとんどないし、
おそらくそういう目で見られたこともなかったと思う。
それは、それで変に同情されなくて良かったのだが…

年に数回程度、早く帰宅しなくていいの、と
上司の方に声をかけていただいたくらいである。


介護の苦労は本当に理解されにくい。
かなり昔のことだが、
あるテレビ番組でこんな再現VTRを見たことがある。

近所の若い女の子が、親戚でもないのに、
体の不自由なおじいちゃんのために
手料理をもっていった。
そして、1~2時間程度おしゃべりをしたところで、
そのおじいちゃんに笑顔で挨拶して家を出る。
おじいちゃんも笑顔でこたえる。

しかし、実は、そのおじいちゃんには
同居の家族がいたのである。
家族のほうはというと、買ってきたお弁当を
これでも食べておいて、といって出かける。

この近所の女の子がすごくやさしくていい子である、
と評され、それはそれで異論はない。
その通りである。

かたや、この同居の家族はけしからんという体だった。
当時、その番組を見ていた私もそう思っていた。
ただ、そのときのゲストで女優の斉藤由貴さんが、
『でも、いっしょに暮らしているということだけでも
 大変なことなんですよね。』
といった旨のことをおっしゃっていた。

斉藤由貴さんが、自らの経験を踏まえていったことばなのか、
何気なくいったことばなのかは分からない。
そして、当時の私は、
  この人、なんてことを言うんだ、
と思ったくらいである。

しかし、今になって分かる。
その女の子は、とにかく1~2時間で
人の世話をするという環境・空間から抜け出せるのである。
同居の家族は逆である。
一時的に抜け出せるだけなのである。
むしろ、それが息抜きでさえある。

こういうことをおっしゃるヘルパーさんもいらした。
自分たちは、これで給料をもらってるからできる。
仕事だから介護ができると。
やっぱり、身内だと自分らもなかなかできないだろうと。

ヘルパーさんらのお給料が安いとはよくいわれているが、
本当にそう思う。
精神的にも肉体的にも
政治家なんかより重労働である。


こんな経験もある。

介護保険制度が厳格化され、
掃除や洗濯などの家事は家族が同居している場合は適用外、
そして、
家族が土日に勤めていない場合は、原則、週末の利用は不可、となった。

これ、介護で苦労したことがない者が考えたにちがいない。
なぜなら、保険制度の利用者は、
外の仕事で疲れたから、家でくつろぎたい、
家事で疲れたから、外出してリフレッシュしたい、
そういう思いで利用するからである。

財政が厳しい状況下、厳格化が必要なのは分かる。
しかし、この改正の仕方は、
人のことを機械かなんかとしかみなせない者の発想である。
これでは、ストレス発散の場が塞がれてしまう。
こんなことも理解できないのか…


一年前、職場でウトウトしてしまい、注意された。
のども乾いていないのにお茶を何杯もおかわりし、
尿意ももよおさないのに何度もトイレに行く、
そういう工夫をしていたにもかかわらずである。

仕事に身を入れず、眠いのを我慢することに傾注し続けるよりは、
数分でも目を閉じて頭をスッキリさせてから仕事にとりかかった方が
能率がぜんぜん違ってくるとの判断もあって。

悪いのは自分であり、注意されるのは当然である。
ただ、それでも若干、合点がいかない点もあった。

まず、父が亡くなって介護の必要がなくなったのに、
という点を強調されたことである。
人間、少なくとも私は、機械ではない。
起床時間、就寝時間を急に変えることはできなかった。
だから、父が亡くなって数か月後に異動した職場では、
居眠りをすることはなかった。

次に、注意をした方がヘビースモーカーだったということ。
この方は、私も含め非喫煙者が仕事をしている間に、
喫煙所でくつろぐことができる。
うらやましかった。


どうやら、形式を大切にする傾向がうかがえる。

税務大学校が新宿区にあった頃、
研修生のエレベーターの利用が禁止されていた。
教授ら先生方が利用されるためである。

私が研修生だったときのある夜、
研修課題を終わらせるために校舎に残っていたが、
帰る際、ついエレベーターを使用してしまった。
そして、一階に着いて降りると、
職員が待ちかまえていた。
こっぴどく叱られた。

が、注意されている内容を聞いていると、
この方、エレベーターの利用禁止の意味を
まったく理解されていないことが分かってくる。
禁止なものは禁止、
教授らが絶対利用するはずもない時間帯でも利用していけない、
というところの説明がまるでない。
つまり、説得力がなかったのである。

バスケットボールでも、3歩以上歩いてはいけないという
トラベリングを指導するにしても、
歩いちゃいけないものは、いけない、
と、指導するよりは、
オフサイドがない代わりに、トラベリングがある、
と、指導したほうが説得力がある。


すみません、
最後は、完全に話がそれてしまい、
言い訳とも愚痴ともつかないことを
こぼしてしまいました。




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両親の思い出 | 日記
2013.01.25(Fri):両親の思い出
療養型の病院に転院してから、
その病院でリハビリ指導してくださったおかげで
父は、まったくの寝たきり状態からは回復した。

そして、母が亡くなってから数か月が経ったこともあり、
頭のほうもしっかりしてきて、元に戻った。

ただ、トイレに行きたくなっても
すぐには歩行できないので、
オムツははずせない状態だった。


父の最初の病室と同室だった患者は、
食事の配膳など、父の面倒をかなり見てくれた。
だから、父は、その患者から、
二千円を貸してくれ、といわれ
貸したらしい。

九割九分貸したお金は戻ってこない。

そんな経験から、父が別の病室に移ったあと、
私は、父親の見舞いに行くたびに
二千円の返済を催促した。
が、のらりくらりとかわされた。

そして、案の定、とんずらされた。
病院に、退院後の住所をきいても、
知らないの一点張り。
個人情報ゆえ、当然といえば当然だが…


父は、そうめんが大好物だった。
しかし、病院では、そうめんは出ない。
だから、家でそうめんを茹でてから、
病院に持っていく。

新しい病室の同室の患者さんらは、
そんな私と父の姿を見て、うらやましがる。
他の患者さんのご家族の方は、めったにお見舞いに
来ることがなかったからだ。



母が亡くなって初めての元旦、

「おめでとうございます。」

といって、父がいる病室に入る。

「しっ」

と父に言われる。

父を含め、普段四人いる病室に三人しかいない。

たった今、
この病室で最高齢の方が亡くなられたということ。

その方は九十を超えられた方で、寝たきり状態だった。
父の見舞いに来た私にも時おり話かけてくださったが、
うまく聞き取れなかった。
私があいまいなお辞儀をすると、
決まって、横になりながらも片手を上げて
合図をしてくださった。

親族の方は一度たりとも見舞いには来ていなかった。
だから、この病室で体の自由がきく別の患者さんが
お世話をしていた。


『ちっ、あと30分後に死んでくれればよかったのに。』

元旦出勤の医師は、あと30分すれば交代で家に帰れたらしい。
心の中で思っても、他の患者さんに聞こえるほどの音量で
絶対に発してはならない言葉。
やはり、医師にも、常識という教育が必要か。
もちろん、立派なお医者さんも大勢いらっしゃるが…

その亡くなられた方の親族はというと、
その日、初めて病院に来たという。


そんな、よろしくない思い出のある病院も
退院することに。

杖をつきながら、病院をゆっくり出る。
同室でお世話になった別の患者さんが
わざわざ玄関までお見送りにきてくださった。

そして、いよいよタクシーに乗車。
父は、車窓から外を眺め、
一年以上ぶりのシャバの世界を堪能しているかのようだった。

母が生存中からずっと入院していたのだから。



仕事で疲れたあと、病院に毎日お見舞いに行くのも
正直、しんどかった。
そのたびに、父から、病院であったことの愚痴を聞かされる。
愚痴をこぼす本人にはストレス発散になるが、
私には、仕事のストレスの上に
さらにストレスがおおいかぶさってくる。

そして、私には発散の場がない。

ただ、そんなことは序の口だった。

これから、長い長い闘いが待ちかまえていようとは
頭では分かっているつもりだったが、
そのつらさまでは、知るよしもなかった。



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新聞の読み方 | 日記
2013.01.24(Thu):外交・安保問題
「テロと戦う」

アルジェリア人質事件の政府対策本部で、
安倍総理がおっしゃったお言葉。

この当然のことが、実は難しく、厳しい。
それは、二つの点からである。
一つは、人質の命との関係、そして
二つめは、イスラム原理主義者によるこうした事件が
止まない原因との関係である。


安倍総理が、アルジェリアのセラル首相に、
拙速な武装勢力への攻撃は止めるよう要請。
その翌日、
アルジェリア軍は、人質を乗せた武装集団の車両数台を
ヘリコプターで攻撃し爆破させるなどし、
多くの人質を犠牲にしながら、強行に武装勢力を制圧した。

この攻撃は、セラル首相によると、
人質救出作戦ということだった。
しかし、一方で
テロには屈しないという断固たる姿勢を示すため、
武装勢力が国外へ逃亡し、拡散するのを防ぐため、
アルジェリアの国営企業、イギリスの企業、そしてノルウェーの企業の共同事業による
国家の一大プロジェクトたる天然ガス関連施設を守るため、
ともいわれている。

そして、フランス政府も、
このアルジェリア政府軍の攻撃を評価している。
ファビウス外相にいたっては、
この攻撃を非難する声に不快感さえ示している。

そして、イギリスでも、
当初は攻撃の事前通告がなかったと
議会でアルジェリア政府を非難するかのような発言をしていたキャメロン首相さえも、
後に、攻撃を擁護する姿勢に転じている。

欧米の多くのマスメディアもこの攻撃を擁護しているという。

フランスについては、
アルジェリアの旧宗主国であること、
マリへの軍事介入のため領空への軍機の航行を
認めてもらっていることなども直接関係しているのであろう。


こうした欧米の反応をみて、いつも感じることは、

”一人の生命は地球より重い”という言葉。

35年以上前、ダッカ日航機ハイジャック事件で、
超法規的措置として、
獄中の日本赤軍メンバーらの釈放を決めた
当時の福田赳夫首相のあのお言葉が、
欧米では通じないということ。

欧米では、人命救助よりテロに屈しないことを優先する。
断固たる姿勢をみせなければ、
さらにテロを増長させることになるからである。

ここだけ聞けば、ごもっともなことのようにもきこえる。

ただ、欧米人の心底には、

  大の虫のために、小の虫を殺すのは当然、

という考えがあるようだ。

私がOECD(経済協力開発機構)に勤めていたとき、
職員にいろいろ日本のことを話したのだが、
彼らが一番驚くのは、成田闘争の話である。
彼らによると、

『成田空港が開港されないと世界中の人が困るのに、
 一部の反対者なんか、なんでブルドーザーで
 さっさと轢かなかったの?』

ということになる。

彼らには、
多くの人権のためには、個々の人権が犠牲になるのは当然
という発想があるようである。


二つめは、

  2001年のアメリカにおける9.11事件をはじめとする
  イスラム原理主義者らによるテロが、
  なぜ止まないのか?

という問題である。

イスラム諸国は貧困層が多いため、
比較的生活が豊かな欧米諸国に逆恨みをしているのではないか、
といったような単純な問題ではないような気がする。

まったくの個人的な見解にすぎないが、
やはり、過去の植民地支配が大きく影響しているのではないか?
つまり、キリスト教徒の国による、
アフリカ・中東を中心とするイスラム教徒の国に対する植民地支配。

そこでは、鉱物資源などの権益確保のための搾取が繰り広げられていた。
それにもかかわらず、当然のことながら、
旧宗主国であるヨーロッパの国々は謝罪しないし、そんな気は毛頭ない。
そんな発想は微塵もない。

小さいときから反日教育を徹底し、
過去の日本の植民地支配への恨みを未来永劫に忘れまいとする
中国・韓国と日本との関係に似ているような気もする。
ただ、中国や韓国の過激派といえども、
テロという卑劣な行為にうってでることはないという違いはあるが…

そして、現在のフランス軍によるマリへの軍事介入も
同様のにおいがする。
マリではフランスからの独立後、南北の貧富の差が拡大、
貧困層の多い北部遊牧民族がマリからの独立を図り反乱、
これにイスラム過激派が加わり勢力を拡大。

そこで、旧宗主国のフランスが
反政府勢力を制圧するため軍事介入。
ただ、北部には
ウランなど原子力産業の要となる鉱物資源が豊富にあるので、
フランスはこの権益を守るために軍事介入している、
ともいわれている。

たしかに、過去の欧州列強による植民地支配が
今日の内乱や紛争の遠因にはなっているとはいえる。


欧米が二重外交をとっていることも
イスラム諸国から反感をかう原因の一つだと思う。

欧米は民主化を掲げながらも、
中東や北アフリカでは、
天然資源の権益確保のため、ときには独裁政権を擁護し、
欧米諸国どうしで対立することもある。

また、戦後におけるGHQのわが国に対する占領政策の中でも
アメリカ国内では言論の自由を掲げながら、
日本の共産化を防ぐため、しっかりと言論統制。

第一次大戦中、イギリスが、トルコからの独立をめぐり、
アラブとユダヤ双方にいい顔をした二枚舌・三枚舌外交。
これも、現在の中東紛争の遠因ともいえる。

さらに過去に遡ると、外交とは直接関係ないが、
18世紀後半、アメリカとフランスで
”人間の自由・平等”を求めて市民革命が起きるが、
その ”人間”のなかに有色人種は含まれていない。


ここで、今回のアルジェリア人質事件においても何故、

  キリスト教徒の国ではない、
  アフリカと中東には手を出さなかった
  日本の国民も人質になったのか?

という疑問が生じる。

この疑問に対しては、
日本が、特に軍事面で、アメリカ追従の姿勢をとっているからだ、
ということはよく言われている。

イスラム教徒の国々も、
わが国がアメリカに原爆を落とされたことをよく知っている。
また、これまでは、日本製品の家電や自動車が
これらの国々を席巻していた。

だから、わが国も、
もう少し中東やアフリカ諸国に対する外交をじょうずにやれば、
現在とは違った局面になっていたかもしれない。


要は、わが国と欧米諸国との間で
人権に対する考え方が違うということ。

先ほど、欧米人には

”多くの人権のためには、個々の人権が犠牲になるのは当然”

という発想があるようだ、と述べたが、

”自分たちの『正義』を貫くためには、犠牲となる人権があってもかまわない”

と言い換えることもできそうである。


まさに、第二次大戦中に、何十万人もの民間人を平気で殺りくした
東京や大阪などの主要都市に対する大空襲、そして
広島と長崎への原爆投下も、その例ではなかろうか。

話はそれるが、私がパリで暮らしていたころ、
フランス人らに、日本への原爆投下についてどう思うか、
と尋ねたところ、みんな口をそろえて、

  原爆投下がなければ日本はいつまでも降伏せず、
  戦争が長引き、より犠牲者は増えたはず

というアメリカのいう原爆投下の正当性を信じて疑わない。
どうやら、学校でそのような教育を受けているうようである。

一万歩譲ってこの正当性を認めるにしても、
広島へ投下されたあとの8月9日、
前日に日本に宣戦布告したソ連が満州に侵攻、
これで日本が降伏する可能性は高まったのだから、
その日のうちに長崎に投下する必要は
まったくなかったはずである。

ただ、原爆投下の理由については、
ソ連に対し占領政策を有利にしたかったという
アメリカの思惑があったということも
よくいわれていることではある。

それにしても、そのためには、
何十万人という何の罪もない日本人の命を奪うことを厭わない
人権感覚は、冷酷無情としかいいようがない。

2001年9月11日のアメリカにおける同時多発テロ事件、
ボーイング機が世界貿易センタービルに突っ込んださい、
アメリカでは、”パールハーバーの再来”といわれていた。
不意打ち攻撃という点をとらまえて
このようないい方がされたのであろうが、
真珠湾攻撃は軍事施設への攻撃であった。

だから、事前通告なく何の罪もない民間人を無差別に殺りくした
という点で、本質的には、むしろ原爆投下に近いといえる。
当時の石原都知事も同様のことをいっている。

なお、真珠湾攻撃については、
実は、アメリカが事前の攻撃を知りながら、
日米開戦の口実のため、
わざと日本軍に攻撃させたという陰謀説もある。



さらに、厄介なのが、
彼らのいうところの『正義』である。
自分らの『正義』が絶対であって、
それ以外の『正義』については、
その存在という概念さえないように思える。

先の例においても、
原爆投下は『正義』になるのである。


先日、あるバラエティー番組で、
明石家さんまさんが次のような話をされていた。

お正月に外国へ行き、
空港の税関で荷物検査を受けた際、
お年玉の説明に四苦八苦した後、
七福神の説明をしなければならなくなり、

”Seven Gods”

と何度も繰り返したらしい。
しかし、税関職員は、

”No! One God”

と繰り返し、断固として譲らなかったそうだ。

つまり、多神教の文化がある、
ということを、そもそも考えることができないのである。


また、私が税務調査の仕事をしていたころのお話である。
外資系の会社にいくと、相手のアメリカ人は、
召喚状(Summons)を見せてもらわないと、
税務調査に応じられない、という。

おそらく、税務調査に応じないための口実なのではあろうが、
相手のことばの調子や表情からすると、
日本にも、アメリカと同様に召喚状という制度があるのが当然、
と思っていた節がある。

つまり、アメリカとは違う税務調査の方法がある、
ということを考えることができないのである。



以上のように、

”一人の生命は地球より重い”

という発想が通じない欧米人の人権感覚を踏まえたうえで
テロと戦わなければならない。

ここに、日本人として戦わなければならない難しさがある。

それだけではない。
テロには屈しない、
という通り一遍の姿勢を見せるだけでは、
根本的には何の解決にもならない。

テロの根本原因・背景それを歴史的にも追求し、
それから、イスラム諸国といっしょになって
根本的な問題解決を考え、実行しなければならない。

そして、欧米諸国に対しても、
欧米基準が決してグローバル・スタンダードではない、
ということを認識させる必要がある。


だから「テロとの戦い」は難しく、厳しい。


今回、犠牲になってしまわれた方々のご冥福をお祈り申し上げるばかりである。
そして、こうした方々の犠牲を無駄にしないためにも、
「テロとの戦い」方を間違ってはならない。



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2013.01.23(Wed):経済・税金問題
アベノミクスの三本の矢とは、
財政出動、金融緩和、成長戦略といわれている。

正直、金融緩和と成長戦略については、
具体的に頭の中でイメージできなかったので、
1/7付のブログでも触れることができなかった。

しかし、最近、テレビのニュースを見ていて、
ようやく金融緩和についてはイメージができ、
三本の矢の関係も分かってきた。

というか、金融緩和策一つとっても、
いろいろな人がいろいろなことを考えている
ということが分かった。
私も、よく分からなかったはずである。


私なりに総合して考えるとこういうことらしい。

まず、日本円というお金の量を増やせば円の価値が下がる。
そして、円安にふれる。
例えば、今まで一ドルの物を80円で輸入できていたのが、
同じ一ドルの物でも100円を支払わなければならなくなる。
そうすると、輸入した物が値上がりする。

値上がりする物は輸入した物に限らない。
お金の量を増やせば、お金の値打ちが下がる。
今まで、80円を支払って買えた物が、
同じ物でも、お金の価値が下がるので、
100円支払わなければ買えなくなる。

こうして、先日、政府と日本銀行との間で合意された
インフレ目標2%というのが達成されるらしい。

問題はここからであり、
私が今までイメージできなかった理由でもある。

どうやら、安倍総理(もしくはブレイン?)や多くの識者は、
物の値段が上がれば企業の収益が上がると考えているらしい。
いや、考えているというより、期待している、
といったほうが正確か。

なお、円安によって輸出が増加することで
輸出企業の収益が上がることは期待できる。


無職になって思うのだが、インフレは非常に困る。
いろいろな物が値上がりしたら、
私なら、買うのを控える。
無職だからである。

無職の方でもなくても、給料が上がらなければ、
無理して高い物を買うより、
節約し始めるのが自然な流れだと思う。

そうでなくても、
来年の4月以降は消費税率が8%、
再来年の10月以降は10%となることが
ほぼ確実な状況である。

受け取るほうは、インフレ分は企業に、消費税分は国や地方に、
と分かれるのであろうが、
両方払うのは消費者である。

このように、
物の値段が高くなるだけで消費が増えず、
企業の収益増にもつながらない最悪の状態を
スタグフレーションという。


安倍総理や多くの識者は、
以上のような心配はあえてふれないようにして、
物価高から企業収益増(①)、そして
企業収益増から賃金引上げ(②)、さらに
賃金引上げから消費増(③)
というサイクルを描いているようである。

①が実現するのか、という疑問は今述べたが、
②が実現するのか、という疑問については、
先日の財政出動についてのブログでも既にふれたし、
昨今のニュース番組でも
必ずといっていいほど議論されている。

賃金引上げ実現のため、
賃金を引き上げた企業にはその分法人税を減税する
という措置も検討されている。

しかし、それでも、経団連は、
今度の春闘でベースアップも定期昇給もあり得ない
と表明している。

③が実現するかどうかも、
老後を安心して暮らすことができるのか、
老後の生活に備えて過剰に貯蓄をしなくてもすむような
そんな社会になっているのか、
といった年金・医療制度改革と深くかかわっていることは
1/7付のブログでも述べた。

つまり、②と③は金融緩和策に限った問題ではない。


だから、法人税減税反対、消費税率引上げ反対
となるのは、共産党の主張。

維新の会は、
規制緩和や法人税減税による企業収益増のほうを強調している。
私のような無職には、どうぞさっさと働き口を探してください、
ということになる。

ただ、三本の矢の一つである ”成長戦略”にも、
規制緩和や
私が選挙期間中に訴えていた民間の知恵の活用も
含まれているようである。
だから、”金融緩和”だけではなく
”成長戦略”も必要になってくる。


まとめると、”金融緩和”と ”成長戦略”については、

消費税率引上げとあわせ物価高となっても消費が伸びるのか、
規制緩和や民間の知恵の活用がきちんと実行されるのか、
そして、賃金引上げは実現するのか、

といったあたりがアベノミクスを見守る視点といえそうである。


そして、”財政出動”をカンフル剤として、
”金融緩和”と ”成長戦略”のセットで
企業の収益増、消費増、そして企業の投資増を目指している
というのが、アベノミクスの三本の矢の関係ともいえる。


スタグフレーションという最悪の状態にならないためにも、
きちんと成長戦略を実行できるかどうかが、
アベノミクス成功のカギとなる。

失敗した場合は、
物価高なのに不景気、さらなる国の借金の増大、
日本国債の暴落、借金返済のための利率の上昇…
と本当に取り返しのつかない状況になる。

そうならないためにも、
政治家や専門家らによるしっかりとした
監視を期待する。

私が吠えたところで、
どうにもならないので。




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新聞の読み方 | 日記
埼玉県の教職員100人以上が
退職金を減らされる前に今月で早期退職。


3月いっぱいまで働いたら、
70万円損するのだから、仕方がない。

70万円といったら大金である。

埼玉県の上田知事は

  特に担任を持っている先生が辞めるのは不快な思いだ。
  担任の先生が3月まであと2ヶ月のところで辞めてしまうのは
  無責任のそしりを受けてもやむをえない。

といって、早期退職を希望されている教職員の方々を批判したらしい。

と、いうより、
このように早期退職を希望する方々が出てくるであろうことは
労組のほうからさんざん指摘されていたにもかかわらず、
2月1日からの退職金引下げを決めた
行政のほうに責任があると思う。

それなのに、早期退職の意向を示されている教職員の方々を
批判するのは、筋違いであろう。

なぜ、新年度の4月1日からの施行にしなかったのか、
という疑問について、上田知事は

  2月から減額しなければ、39億円の負担が生じるので、
  逆に、国民から『あなたたちは、わざと遅らせている』
  という批判を受けてしまう。

とのたまわったらしい。

それなら、もっと早く引き下げろよ、
という話になるし、
それが、法的に不可能だったとしても、
『わざと』でないことは、明々白々である。

このような推測にもとづいた、しかも
責任を国民に転嫁するような発言はいかがなものか…


実際、東京都では、
一月から退職金を引き下げてはいるが、
こうした事態にならないよう、
自己都合退職の場合は、退職金が減額になるようにしているため、
早期退職希望者はでていないらしい。
(ただ、これはこれで、不利益を受ける側にとって、
 手続上まったく問題ないのか、疑問は残る。)

また、鹿児島県などでは、
退職金の引下げは新年度からと決めているので、
やはり、早期退職希望者はでていないらしい。


先生に苦渋の選択を迫らせるような
そんな仕組みをつくってしまった行政の責任は重い。



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両親の思い出 | 日記
2013.01.21(Mon):両親の思い出
母は、今にでも目を覚ましそうな表情をしていて、
こわいくらいだった。

そうなってほしいという気持ちが
そう見えさせたのかもしれないが、
本当にそうだった。


私が赤ちゃんのとき、
オムツを替えてもらった直後、
気持ちよくなったのか、よくウンチをして
母を困らせたらしい。

まだ、幼稚園に通う前のある日の冬、
毛糸帽子をかぶるの忘れ、
どうしてもかぶりたいと
八百屋の前でだだをこねる私を
母は叱ってくれた。

それまで母が私に服を着せてくれていたのが、
ある日、自分で着なさい、という。
そして、またもや泣きじゃくる私を
母は困惑した表情で見守る。

  ここは、着せるわけにはいかない。

そんな母の顔を今でも覚えている。

補助輪なしの自転車がなかなか乗れず、
泣きながら練習する私に
母はずっと付き添ってくれた。

第二大島小学校二年生のとき、
公園で遊んでいて足の骨を折ってしまい
これまた泣きじゃくる私を
母はあわてて抱えて病院に運んでくれた。

第四大島小学校の卒業式のとき、
私とのツーショットを撮ってもらおうと
母は当時の同級生にお願いしてくれた。
でも、そのお願いする声が母の声とは気づかず、
私はそのまま教室に入ってしまった。
だから、母とのツーショット写真はない。
今でも非常に悔やまれる。

第二大島中学時代、
地元の ”大島クラブ”という野球チームに入る。
しかし、補欠だから試合に出られない。
だから、ユニホームはいつもきれい。
それでも、母は何もいわずに洗濯をしてくれた。

都立城東高校への入学が決まり、
母は体調が悪いのにいっしょに説明会に来てくれた。
そして、このときから、
毎朝、母は革靴を磨いてくれた。

上智大学に入って陸上を始めてからは
ランニングシャツやパンツを洗ってくれた。

トイレを磨いてくれた母、
ミシンをかけてくれた母
アイロンをかけてくれた母
お米を洗ってくれた母

私のために最後につくってくれた料理は、
焼き魚定食。
私のために、一体、何回料理をつくってくれたのだろうか?

献立を考えるだけでも大変だったはず。
それなのに、母が夕食の準備をしてくれた後に、
今晩は夕食は要らないと、平気で連絡していた私。


そんなことが一瞬にして
走馬灯のようによみがえってくる。

私は親不孝だった。
母より先に逝かなかったことだけを除いて。

だから、今は、その親不孝を払拭すべく、
毎晩、何十年前のその日に当たる母の姿を頭に思い描きながら、
小さな仏壇の前で手を合わせるようにしている。


今でも街中で親子連れをみるたびに、
自分もこうやって母にかわいがられたんだろうな、
と、ほほえましく思う。
自分は独身なので、もちろん子どもはいない。
自分で実際に子どもを育ててはじめて、
親に育ててもらったことのありがたみが分かるそうだが、
私も分かってきたような気がする。




気がつくと、病室には誰もいなかった。
そういえば、同室にいらっしゃっるはずの
もう一人の患者さんの姿がみつからない。
母が危篤になってから、別の部屋に移されたのだろうか。


本当は、泣きじゃくりたかった。

しかし、葬儀屋さんが、病室の外から私を見守ってくれている。
気を使って外で待機してくださっているのだろうが、
本当に気を使ってくださるのであれば、
母と二人きりにしてほしかった。

以来、母と二人きりになることは永遠になかった。



父は、相変わらず入院したままで、
自分一人で起き上がることもできない。
声をかけても返事をしてくれない。
ますます元気がなくなった感じだ。

だから、父が名目上の喪主で、
私が事実上の喪主となった。

葬儀中、私が病院から父を車いすで連れてくると、
ご親族をはじめとする参列者の方々が
すすり泣いてくださる。
それでも、父は短時間しか母のそばにいてあげられなかった。

  もう、お別れはすんでいるから、いいよ。

車いすの父がそう語っていたような気がした。



葬儀もひと段落し、落ち着いた後も、
父へのお見舞いは続く。
お見舞いといっても本当に反応がなく、
母の死に直面したこともあり、
本当にボケてしまったのか…


父のいる病室に向かう途中、
母の主治医だった医師に遭遇する。
私は「こんにちは」とだけ言っておいた。
なぜなら、
その医師が、若く可愛らしい女性ソーシャルワーカーを
くどいているところだったからだ。
そう、そのソーシャルワーカーさんも、
数週間前、父の転院のことで
母と相談した、あの方だったのだ。

その医師は、その女性をくどくのに一生懸命で、
そばを通る私にまったく気がつかない。
だから「こんにちは」の一言にもまったく無反応。
ソーシャルワーカーさんのほうも、くどかれて
明らかに迷惑そうな表情をしているが、
私の存在にさえ気がつかない。

  こんな人たちにお世話になっていたのか…

切なくなってきた。

母が入院した際、私は、この医師から、
危篤状態になったら人工呼吸器をつけるか、
問われていた。

経験のある方もおられるかと思うが、
答えは、No と言わせることになっている。
金銭的なことはもちろん、何よりも
人工呼吸器をはずすとき、
それは命を断つことを意味するので、
親族がつらい思いをするからである。

今でこそ、私もこのように理解できるが、
当時の私は、初めてきく話でよく理解できなかった。
その医師には、
とにかく母が苦しまないようにお願いします、といったが、
私のそのお願いから、No という答えを引き出すのに窮し、
きちんと説明してくれなかった。

結局、その前の母の主治医の先生にきちんと説明してもらう始末。


さらに、こんなこともあった。
私が入院中の母を見舞い、話しこんでいたとき、
この新しいほうの主治医は、病室の外から私を手招きする。

この主治医が病室の外で数分待っていたのは気がついていた。
そして、私と二人きりで話したがっているのも分かっていたし、
その内容も母のガンの進行具合ということも察しがついていた。

だからこそ、さっさと母の視界から消え去ってほしかった。
母が不安がるから。
それなのに、この主治医はそんなことも理解できず、
自分の都合のことばかり気にして、
しびれを切らして、私を手招きしたのである。

案の定、ガンの進行度の話であった。
そして、案の定、病室に戻ると、母にきかれた。

「何の話だったの?」

ガンの転移のことは母に隠していたので、こう答えてしまった。

「いろいろな薬を飲んでいるから、
 肝臓がちょっとはれ始めているんだって。」

しかし、これが数日後、悲劇を生むことになった。

亡くなる前日、背骨に転移していたガンが原因で
母は、腰に激痛がはしる、と訴えていたらしい。
もちろん、母は激痛の原因を知らなかったはずなのだが…

主治医は、痛みを和らげる薬の投与を提案したらしいが、
母は、薬の投与を拒んだという。
おそらく、数日前の私のことばを信用してのことであろう。
たしかに、その日、私がお見舞いに行ったとき、
母は、腰に多量の湿布を貼って眠っていた。


医師に一番求められるのは、もちろん腕である。ただ、
患者やその家族らに対する説明もきちんとできるような、
そして、患者やその家族らを思いやることができるような、
そんな教育も医学部ではしてもらいたいものである。

あと、気になるのが、看護師さんら職員の方々。
医師のことを、患者やその家族ら外部の者との会話の中でも、
先生とよぶ。

通常の社会では、外部の者との会話の中では、
社内の上司の名前は呼び捨てにする。
あの政治の世界でさえ、
秘書は、外の人との会話の中では、
お仕いする政治家を呼び捨てにする。
政治家本人と話すときでさえ代議士といい、
先生とはいわない。

医療社会は別なのかもしれないが、
ふつうの社会で暮らしていると、
やはり気になってしまうのは、私だけか…


数か月前、
父もガンが再発し、余命はあと数か月かもしれない、
そう言われたが、どうやらガンではなかったらしい。

実は、その後十年間、父はいろいろな病状で、いろいろな病院で
入退院を繰り返すことになるのだが、
そのたびに同じようなことを言われる。

結局、父が亡くなるまで
ガンは再発することはなかったのだが、
特に、肺に悪性腫瘍とまぎらわしい影が
映っていたようである。


そして、いよいよ父が療養型の病院に転院することが決まった。

これから、十年間以上、私の生活が一変しようとは、
このときは予想だにしなかった。




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両親の思い出 | 日記
2013.01.20(Sun):両親の思い出
本日は、税務署長会議。
関東信越国税局管内の署長さんが
さいたま市に集う。

会議が始まる前、
先日、出張時にお世話になった署長さんに
ご挨拶。

そして、お昼
カレー好きの私は、ポパイカレー大盛りをほおばる。

仕事に戻り、
ちょっと食べ過ぎたかなと
のんきに思っていたとき

突然、机の上の電話が鳴った。


『猪野隆さんですか?』

「はい、そうですが。」

『今度、病院にはいつ来られますか?』

「今日、仕事が終わったら行くつもりですが。」

『午前中は何でもなかったんですが、
 今、肺専門の先生に診てもらっていまして…』

「はっ?」

『早く来てもらえると…』

「要は、危篤状態ということですか?」

『はい。』

慌てて職場を飛び出た。

さいたま新都心駅に向かう途中、
出張帰りの下の階の職員に会う。

なぜか「お疲れ様」という
余裕があった。
このとき無理に笑顔をつくったことを
今でもはっきり覚えている。

電車がなかなか来ない。

その間に叔父や叔母に連絡する。
叔父は仕事中で自宅にいないことは
ちょっと考えれば分かるはず。
しかし、なぜか、何回も電話して、そして
何回も同じ内容の留守電を残していた。

亀戸駅に着くと、普段は歩いて帰宅するところ、
タクシーに飛び乗る。
運転手さんには、とにかく急いでいることは
伝わった。


急いでもらったが、遅かった。


母は上半身が起きた状態だった。
その横に、車椅子に乗った父が
母の手を握っていた。

周りでは、看護師さんらがすすり泣いていた。
そこには弟もいたが、間に合わなかったらしい。

父は、同じ病院に入院していたので、
看護師さんが機転をきかして
この病室に連れてきてくださったらしい。

  せめて、お父さんだけでもいっしょにいてくれたか…


このとき、父も母もことばを発せられるような状態ではなかった。
しかし、後日、父からこんな話を聞いた。


「私が死んでも、悲しまないで」

「あ~、分かった、分かった」

と、心の中で最後の会話を交わしたらしい。

そして、
心臓の鼓動が止んだあと、
母の眼から一筋の涙が流れた。


後日、看護師さんからうかがった話である。



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両親の思い出 | 日記
2013.01.19(Sat):両親の思い出
母が病院に行くといって
自宅を出てから1~2時間してからだろうか、
電話が鳴った。

病院からだった。

母が入院したという。

てっきり、病院から戻ってくるだろうと思っていた私には、
意外なことであった。

すぐに病院に駆けつけると、
新しい主治医が説明してくださった。
今までの優しい主治医さんは、他の病院に異動になったという。
医師は医師で頻繁に異動があるらしい。

『胃カメラで検査したんですが、
 胃はすごくきれいでした。』

  漢方薬のおかげか…

『しかし、肝臓に転移してます。』
といわれ、エコー写真を見せられた。

それでも、数週間はもつだろうと、
またもや、勝手に判断していた。


GWも終わり、再び、さいたま市の職場に通う。
ただ、宿舎には戻らず、東京の自宅から通うことにした。

そして、毎日、母と父とのお見舞いに行った。
母は、父の入院している病院に入院した。
その病院は自宅近くにあり、私としては、
正直、助かった。

父には、毎日、母の病状のことを説明するも、
相変わらず、聞いてくれているのかどうか
分からない。
本当にボケてしまったのか…


実は、およそ一か月前、父親方の親戚が
やはりガンで亡くなられた。
入院中の父は葬儀に参列できなかったため、
母と私が参列した。

そして、四十九日は、
母も入院したので、私一人で参列する予定だった。
私の勘違いか、先方の連絡ミスか、
本来の日より一週間早い日程を
あらかじめ母に伝えていてしまった。

そして、私自身も喪服に着替え
エレベーターに乗ろうとしたとき、
気がついた。
四十九日にしては早い。

案の定、親戚の方に確認すると、
一週間早かった。

そんな話を病室にいる母にすると、母は、

「こんなに暑くて、隆もさぞ大変だろうなって、
 ちょうど思っていたところだったのよ。」

そう母が言ってくれたと同時に、
5月なのに初夏のような陽気の空を
私といっしょに見上げてくれた。

父には、そんな話をしても反応がないような状態だったので、
というより、その親戚の方が亡くなられた事実も
理解していたかどうか定かではなかったので、
あえて言わなかった。

父のベッドは、窓から一番離れた廊下側にあった。


それから三日後、
仕事帰り、いつものように母の病室にも寄った。
そして、いつものように、同室の患者さんと
そのお見舞いの方にもご挨拶。

たしか、母とは、洗濯物の話をしたと思う。
病院でも有料で洗濯をしてくれてはいたので、
何を病院で洗濯してもらって、
何を自宅に持ち帰って洗濯をして、
何はまだ洗濯をしなくていいのか、
そんな選択の話をしていたと思う。

そして、私が病室を出るときに
母が私にかけてくれた最後のことば


「お疲れさま」


私が産まれたとき、
母が私にかけてくれた最初のことば
それは、何だったんだろう…



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両親の思い出 | 日記
2013.01.18(Fri):両親の思い出
札幌国税局徴収部から
さいたま市にある関東信越国税局調査査察部に異動。

母と暮らすと料理や家事で負担をかけてしまうと思い、
さいたま市の宿舎で暮らすようにした。
もちろん東京の自宅にはしょっちゅう戻っていた。
父も近くの病院で入院していることもあり。

母は毎日、父の見舞いに行っていたが、
父の介護から解放されたこともあり、
元気になっていた。


このころ、放射線治療が功を奏し、
肺のガンは小さくなっていた。
ただ、放射線治療により味覚が鈍くなったせいで、
母の食事量は増えていた。

そのためか、本当に若干だが、ふっくらし始めていた。
抗がん剤治療で抜けた髪の毛もすっかり元に戻り、
外見はおろか、普段の行動も元気だった頃に戻っていた。

それが数か月続き、そしてついに、
母の命は一年ももたないかもしれないと言われてから
一年が経った。

  このままいけば母のガンは治る。

そう、信じ切っていた。


年が明けて三月、
父の主治医の先生から、お伝えしたいことがある
との連絡を受け、母と二人で病院に行った。

どうやら、父のほうもガンが再発したらしい、と。
しかも、あと数か月…

  お母さんのみならずお父さんもか…

母も私もこの医師のことばを信じた。

自宅に戻ると、母は父に万が一がおきた場合にと、
いろいろな書類の在りかを教えてくれた。

それは、自分自身も覚悟した上でのことだったのかもしれない。


母は毎日、私もほぼ毎日、
父のところに見舞いに行っていた。
しかし、四月に入ると、
母も日に日に元気がなくなり始めてきていたのが分かった。

父の病室は二階だった。
母は当初、階段をのぼっていたが、
そのうち、エレベーターを使い始めた。

病室につくと、いつの日からか、
母自身も父のベッドの手すりに両腕をかけ、
自分の頭を下に向けてその両腕におき、
しばらく目をつむるようになっていた。

このころ、母の主治医の先生からは、
ガンが頭のほうに転移しているといわれ、
そう長くはないようなことを言われた。
ただ、具体的な期間は言われず、
主治医の先生のほうも言いようがなかったのかもしれない。

  お母さんもか…

それでも、数か月はもつ、
とかってに思っていた。


父はというと、
本当にボケてしまったかと思うくらい、
母と私が見舞いに来ても
反応がなかった。


そして、ゴールデンウイークに入ると、
病院から、
父の入院期間が長くなってきていたので、
療養型の病院へ転院するよう、いわれた。

療養型の病院とは、
医療を完了し病状が安定した後も、
介護を必要として退院することが難しく、
継続して療養が必要な場合など、
そうした長期入院が必要な患者を収容する
ことができる病院のことをいう。

ただ、家庭や社会生活への復帰を目的としたものなので、
いつまでも入院していられるわけではない。

そして、母と転院すべき病院を探すために
ソーシャルワーカーさんのところへ
相談しに行った。
そのソーシャルワーカーさんは、
可愛らしい感じの若い女性の方だった。


それから、数日後、
母が、おそらく生まれて初めて
私が起きても寝ていた。

母は毎朝5時ごろに起きて
家事を始めていた。

しかし、この日だけは違っていた。

それでも、しばらくして起きて、
家事を始めた。


すでに、ゴールデンウィークに入っていたこと、
母の体調がすぐれていなかったこと、そして
父も近くの病院で入院していたこともあり、
ここ数日、東京の自宅に居っぱなしだった。

母とテレビを見ていたとき、
ある登場人物がガンで亡くなるというドラマをやっていた。
しかし、あわててチャンネルを変えるのも変だったので、
そのまま見ていた。

今でこそ、ガンを告知するのが主流のようではあるが、
家庭の事情によっては、隠しているケース、そして
今回の母のように、転移は隠しているというケースもある。

だから、テレビのドラマとかで、
冷や冷やとさせられるシーンを見せられることがある。
こんな症状だったらガンなんだ、とか、
これだけ進行しているんだ、とか。


母は、洗濯機にかける前に必ずシャツの襟汚れを
石けんで直接こすって落としてくれる。
今でこそ、襟袖汚れ用の液体洗剤があるが、
そうした洗剤がない時代から続けてきた。

が、今日は、明らかにいつもの背中と違う。

母の代わりに洗濯機のボタンを押す。
責任感・使命感の強い母は、
それくらいのことしか私にさせなかった。
それでも、めったにさせない。

家事を一通り終えると、
ついに、母は、病院に行くと言い出した。

それから、母が二度とこの自宅に戻ることはなかった。



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両親の思い出 | 日記
2013.01.17(Thu):両親の思い出
十年以上も前のことである。

それは、弟の結婚式・披露宴が終わって
自宅に戻ってきたときだった。

昨日、弟が最後に自宅で食事をしていた椅子に
母がこしかけ、おもむろに口を開いた。

「肺に腫瘍があるみたい。」

多分、聞いたのはこれだけだった。
その時、
すでに杖をつかなければ歩けなくなっていた父が
そばで聞いていたのか、
今となっては思い出せない。

私は、そのころ、札幌国税局で、
税金を払ってくれない滞納者から
税金を取りたてる仕事をしていた。

そして、弟の結婚式があるということで、
東京に一時戻って来ていた。

札幌はもう、ガンガンに暖房をかけないと
生活できないくらい寒かった。
しかし、東京は、
夏の暑さがまだわずかに残っている気配さえ感じられた。


人間、こういうとき都合のいいようにかってに解釈するのだろうか…
このとき、心底、その腫瘍は何でもない、と思っていた。

父も胃ガンで摘出手術を受け、
数か月前に病院前で転び、
足を骨折したことがきっかけで
すでに体が不自由な状態。
その上、母までが…
そんなわけがない。

本当にそう信じ切っていた。


だから、札幌に戻ると、その母のことばを忘れていた。

ただ、一回だけ、母が実はガンだ、という夢を見て、
心臓をバクバクさせながら目を覚まし、
ホッとしたことがあった。

でも、その後も、母のあのことばを思い出すことはなかった。


年末、さすがに東京も寒くなっていたが、
札幌とは寒さの質が違っていた。
雪が積もっていないのも大きな違い。
東京ってこんなに歩きやすかったけ…


母の腫瘍のことについて
主治医の先生から、私一人で聞くことになった。
この期に及んでも楽観視していた私は、
待たされている間さえ、
どこかにのんきに電話をしていた記憶がある。

そして、ついに主治医の先生がいらっしゃる部屋へ。

まず、肺に腫瘍があることを見つけたきっかけから話が始まった。

体の悪かった母は、定期的に病院に通っていた。

そして、ある日、主治医の先生が母に
『久しぶりに胸のレントゲンでも撮ってみましょうか?』
といって、レントゲンを撮ってみたら…
ということであった。

胸のレントゲンも定期的には撮っていたようだが、
ちょうどタイミングが悪かったらしい。
その前に撮ったときは、おそらくレントゲンに腫瘍の影が映るかどうか
微妙な時期だったらしい。

そして、次に、ガンの進行段階として、
Ⅰ期~IV期があるという説明を受ける。

  どうせ、ガンじゃないんだから、さっさと説明してくれ!

本気でそう思っていた。

それから、母の肺から細胞を採取したことの説明をしてくださった。

この肺から細胞を採取する作業は、本人にはえらく辛いことらしい。
父もこの数年後、同様の検査を受けることになるのだが、
二度とごめんだ、というようなことを言っていた。

ガンがどれだけ進行しているのか、という判断は、
科学的・化学的方法かなんかを用いて行うのかと思いきや、
実は、顕微鏡でみた医師らの眼で行うらしい。
細胞の顔というか表情をみる、という。

そして、母の肺から採取した細胞の表情を顕微鏡で覗いてみると、
いい表情をしていると。
つまり、良性であると。

  だから、言わんこっちゃない!

それでも、主治医の先生は続けた

『私は、お母様にもう一度だけ細胞を採らせてください、
 とお願いしました。
 そして、もう一度、細胞を採りました。
 お母様は本当によく耐えてくださったと思います。』

肺の細胞を採取されるというのは、
それだけ本当に辛いことらしい。

『そしたら、ステージ・フォーでした。』

それでも、手遅れではない、
命は大丈夫なはず、
そう、思っていた。

『お父様もいっしょにおられまして、
 お二人とも手術を希望されていましたが、
 場所が悪いということで…』

『それから…
 ガンは既に背骨にまで転移してまして…
 おそらく、一年はもたないと思います。』

生まれて初めてヒザがガクガク震えた。

前にも後にも、ヒザが震えるという経験はこのときだけだ。
ヒザは本当に震える。
そして、止まらない。

『ここでは骨のレントゲンは撮れませんので、
 うまく説明して浦安の病院まで行っていただいて
 撮っていただいたのが、これです。』

といって、背骨のレントゲン写真を見せてもらった。
たしかに、黒い部分があったような気がしたが、
もう、頭の中は、パニクッテいた。


そもそも、肺の腫瘍の話を主治医からうかがうという時点で
覚悟はしなければならなかったはず。

そもそも、腫瘍の影がレントゲンで映っているというのは、
それだけガンが進行しているということ。

そんなことにも気がつかないほど、
母のガンのことは信じられないでいた。


部位が悪くて手術ができないというのも嘘で、
手遅れだったということである。

『転移しているということは、ご本人は言っていません。
 弟さんのご判断で…』

少しだけ、冷静になれた。

『手術以外の治療法には、抗がん剤治療と放射線治療とがあります。
 抗がん剤治療でも注射でする方法もありまして、
 お母様はお父様のお世話をしなければならないということで、
 注射による方法をご希望されていましたが、
 やはり、入院していただかないと…』

主治医の先生も、
私が札幌に勤めており、弟も電車の運転をしており、
母親以外に父につきっきりで面倒を見る者がいないということは
把握してくださっていた。

この時、今のような介護保険制度は始まっていなかった。


帰宅すると、母から、
「お医者さんから、聞いた?」
ときかれ、
「うん、だいぶ待たされたけど…」
と返事した。

時間がかかった理由を言っておかないと、
転移のことを気づかれると思った。


このころ、父の介護をしていたのは、母であった。
トイレの近い父は、真夜中に何度も母を起こす。
母の助けをかりないと、トイレに行けなかったからだ。

年末年始、別の部屋で眠っていた私もその度に目を覚ます。
ただ、そこは夫婦だけの世界、
自分はその子どものはずだったが、入れなかった。


正月休み明け、私は札幌に戻り、
ガンに効くという漢方薬を入手して東京に配送。
一か月あたり十数万円かかった。
しかも、当初は偽物をつかまされ、
追加注文をしようと連絡を試みるも不通。
雪道を歩いて輸入会社の住所に行ってみると、既に引き払った後。
最初の注文時、わざわざ札幌の宿舎まで来てもらったので、
つい、信じてしまった。

その後、本物を入手できるようになったが…
もちろん、偽物をつかまされていたことや値段のことは
母には内緒にしていた。

偽物にしても、本物にしても、
その漢方薬はえらく苦くてまずかったらしい。
一本当たり数十ml程度だったが、
飲むのが辛いくらいだったらしい。


二月になって、父が入院したという知らせを受けた。
父もいつ入院してもおかしくない病状だったが、
ベッドが空いたということ、
そして、何よりも
父の世話をしていた母にも
抗がん剤治療を受けるための入院が必要だったからである。

なお、後日談であるが、その十数年後、
私が選挙に落選して、時間もできたので部屋の掃除をしていると、
まさに、このときの入院時に病院に支払った保証金の受領書が出てきた。
そこには、母が書いたと思われる父の名があった。
その受領書をとっておきたい気持ちもあったが、
一円でもおしかった私は、病院に行って、その保証金を返金してもらった。
そのとき、今度は私が、受領書の裏面に
亡くなったはずの父の名を領収人として書いた。
両親からの贈り物だと、自分に言い聞かせながら。

さて、抗がん剤治療のことだが、
頭の毛が抜けるのはもちろん、
おう吐するなど本当に苦しいことらしい。

だから、その人のガンに効く抗がん剤選びが
非常に重要になってくる。

しかし、最初の治療時に投与した抗がん剤が
効かなかった。
だから、しばらく期間をおいて二度目の抗がん剤治療。
二回目は効いたらしい。
ただ、ガンは小さくなったものの、消えはしなかった。

本当に抗がん剤治療は辛いらしく、
この後、母は、
二度とあんな思いまでして治療は受けたくない
といって、抗がん剤治療を受けることはなかった。

私が、二月に東京に戻ると、
母はわざわざ一時退院をして
私のために手料理をふるまってくれた。
たしか、一回目の抗がん剤治療の後だったと思う。


その後、抗がん剤治療を終えた母は退院し、
放射線治療のため、
電車で30分ほどかかる病院に通い始めていた。

その後父は入退院を繰り返し、
だんだん元気がなくなっていくような気がした。


そして、七月、国税当局の異動期となった。
私は、両親の事情で在京勤務にしてもらうよう、
人事にお願いした。
そして、さいたま市にある
関東信越国税局調査査察部への異動となった。



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新聞の読み方 | 日記
昨日、NHKのクローズアップ現代という番組で、
生徒が教師を評価している大阪府の高校を紹介していた。

生徒が、各先生について、
”授業が分かりやすい”
”授業がたのしい”といった項目ごとに点数をつけ、
その結果は、各先生に通知される。
しかも、評価が給与の額に反映されるという。

つまり、従来は、校長のみが教師を評価していたのが、
生徒も評価するようになるということだ。

当然のことである。


番組では、二つの懸念が示されていた。

一つめは、単純に、好き嫌いという感情で評価されてしまわないか?
という懸念である。

これは、たしかにある。
人間だからまったくの感情抜きで評価するということは無理である。
校長が教師を評価する際にも、
感情が多少なりとも無意識にはたらいているばずである。

要は、評価するがわの能力にある。
たしかに、小学生が先生を評価するのは問題である。
好き嫌いが唯一の尺度になりがちだからである。
しかし、高校生なら、感情だけに左右されず評価できるはずである。
この懸念は、高校生を信用していないからこそ生じるものだと思う。

なお、この番組にでていた当の高校生たちは、
自分たちの評価で先生の給料が下がってしまい、
先生のご家族にも迷惑をかけてしまうことにならないか
という心配をしていた。
これなら、大丈夫である。


二つめは、先生が生徒におもねいてしまい、上下関係が保てなくなる
という懸念である。

ただ、先生と生徒が、一律的、形式的に上下関係にあるべきだ
という発想にそもそも問題があると思う。

先生がきちんとした授業を行い、生徒のことを親身になって指導すれば、
自然と生徒のほうからその先生のことを尊敬しはじめる。
そこで、はじめて、”上下関係”というものが生まれるのではないか。

要は、先生が結果を出せばよい。
結果がすべてである。
結果が、人格を肯定してしまうことさえある。

たしかに、学校と予備校とでは、
前者には教育という要素が強くなるので、
いっしょくたに考えることはできない。
しかし、生徒が先生を評価するという制度は、
いい方向にむかっているようである。

校長が、生徒の評価に基づいて、各先生に助言する。
ある先生の授業を、他の先生がみる。
それは、ベテラン教師が若手教師を指導するという意味合いもある。
だた、それだけではなく、生徒や校長から指摘された欠点について、
逆にその点で優れている先生の授業をみて、先生が学ぶ、
という意味もある。

そして、その高校の教師全体のレベルが上がり、
生徒の先生、ひいては人をみる眼も養われていく。
そして、それがまた教師全体のレベルを上げていく。
まさに、正の相乗効果である。

番組では、ここまで直接言及してはいなかったが、
明らかに見て取れた。


この番組をみていたとき、
自分がOECD(経済協力開発機構)に勤めていたときの経験を思い出した。

このころは、ソ連が崩壊して、まだ十年も経っていなかった。
こうした時代背景のもと、
私は東欧諸国や途上国に赴き、
税の仕組みや税の調査などについて地元の職員の方々に伝える
という仕事もしていた。

ポーランドのとある田舎町でのできごとである。
当然のことではあるが、私の話を聴いた方々にアンケートをとった。
が、特に問題はなかった。
ただ、このアンケート、通訳もこたえることになっていた。
私も含め、OECD職員のほとんどがポーランド語を話せるはずもないので、
ポーランド語と英語の通訳がついていたのである。

そして、このときの通訳が ”タカシの英語の発音が聴き取りにくい。”
と、こたえたのである。
私の英語はカタカナ発音なので、当然といば当然ではある。
その後、当時の課長にもダメ出しをされ、
私は、この仕事から外されてしまった。
これも、当然といば当然ではある。

ただ、一か月間の猶予をいただた。
この間、英語、特に発音を磨くことに専念した。
昼休みに視聴覚室に行き、ひたすらリピーティング。

そして、一か月後、課長をはじめ、職員を前に模擬プレゼン。
いつしか、問題点は、私の発音よりプレゼン内容に変わっていた。

温情もあったとは思うが、何とか、この仕事に復帰できた。

ちなみに、私は、国際課税についてのレポートをまとめる
という仕事もしていたので、
この一か月間、何もしていなかったというわけではない。


そして、OECDにおける人事評価のことについても思い出された。
国際機関といえども、さすがに当時は、部下が上司を評価する
というところまではいってなかった。
しかし、私の評価は、最終的には、
課長と私の直接の上司と私との三人での話合いで決まっていた。

そのとき、私の英語能力の評価がイマイチとなっていたので、
私は、ブラッシュアップ(向上)したと書き替えてくれとお願いして、
そうしてもらった記憶がある。


以上は単なる思い出話だが、この番組を見て、思うところが二つあった。

一つめは、会社や役所でも部下が上司を評価する制度を導入したほうがいいと。
社会人なら高校生よりは人をみる眼はあるはずである。
ただ、会社は、高校ほどピュアな社会ではないので、
変に派閥争いと絡んで、おかしなことになるという懸念はある。

役所については、私が勤めていたとき、
上司が自らの経験に基づいて部下を指導するといのは、まだ納得できた。
ただ、霞が関の場合、ペーパーでの仕事が多いこと、そして、
経験豊かとはいえないキャリアが上司につくことが多いこともあり、
上司のほうが必ずしも能力があるとは限らないはずなのに、
そのことを認識しながら部下と接している者は少なかったと思う。

とにかく、部下にとっては、ゼロから築き上げるということが大変なのである。
そこから、50までもっていくことがどんなに大変なことか、
ましてや、70までもっていけば、もうそれは大したものである。
ただ、座っているだけの上司の頭の中には既に100がある。
100の頭でいきなり50や70を見れば、
  こいつは何をやっているんだ、
  本当に無能なやつだな、
と思ってしまうことになりかねない。

おそらく、同一人物でも、上司と部下という立場を換えただけで、
同じことがおきるに違いない。

だからこそ、部下も上司を評価してはじめて、
公平な評価が可能となるのではないか。

私は、最後、不当な人事評価を受けた。
だが、もちろん、私がその評価を不当だと主張する場はなかった。
だから、私は行動を起こすつもりである。
それは、自分のためだけではない。
詳しくは、私が行動を起こしたときにブログでも報告したい。


さて、番組をみてもう一つ思ったことは、
さすが、大阪だということである。
今回は、大阪市の高校で部活顧問の体罰が原因で高校生が自殺した
という痛ましい事件もあって、
大阪からこのような動きが出てきたのであろう。
しかし、このような全国に共通するような問題は、
国が率先して取り組むのが本来のありようではないか。

いじめや体罰がこれだけ問題になっている昨今、
もう少し、文部科学大臣の顔が出てきてもいいような気がする。
自分が選挙で敗れた相手だけに残念である。

生徒が先生を評価するという試み、
まさに ”大阪から国を変える”を地で行く取組みである。


なお、大阪の橋下市長は当初、愛情ある体罰を肯定していた。
しかし、元巨人軍で元メジャーリーガーの桑田真澄さんが、
今の時代、体罰による指導はあり得ないと体罰を全否定された後は、
あの頑固な橋下市長も考えを改めた。

なぜなら、野球というスポーツをあれだけ極めた方の発言だったからだという。
つまり、結果を残した者の発言にはそれだけ説得力があるということである。
これは、結果の重さを物語っている。

学校の先生にも、生徒に ”この先生のいうことなら信じられる”
と自然と心から思ってもらえるような先生になっていただきたい。


それは、政治家を目指す私自身にもいえることである。



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おもろい話やで | 日記
私は、国税に勤務していたときは、
東京のみならず、札幌、大宮、大阪、そしてパリと
いろいろな地に赴任したが、
札幌は、人が親切で、人懐っこかったという思い出がある。

私は独身であるが、料理はせず、いつも外食だった。
ある月曜日、宿舎近くの中華料理屋に初めて入った。
そこで、チャーハン大盛りをいただいた。

そして、三日後の木曜日、その中華料理屋に行った。
私が席に着くやいなや、こう聞かれた。

『また、チャーハン大盛りにします?』

私自身、何を注文していたのか、忘れていた。

なぜ、十年以上も経って、曜日まで覚えているのかというと、
このとき、お店の方が、この前、私が何曜日に来店したのか、
ちゃんと、覚えてくださっていたからである。

おそらく、商売上ということもあるのであろうが、
それにしても、初めて来た客の顔を三日経っても覚えていてくれて、
さらに、私が注文したもの、しかも大盛りということまで
覚えていてくれた。

そのように言われたとき、たしかに、
チャーハン大盛りを注文したことが思い出されたので、
いい加減なことをおっしゃっていたわけでもない。

  こんなにうれしいことはない。

別に私が変わった風貌をしていたというわけではない。
そのお店の方は年配の女性の方だったから、
私に恋心を抱いていたというわけでもない。

程度の差はあれ、このお店だけではなかった。
私が利用させていただいた札幌のお店の方々の多くは、
私の顔を覚えていてくださっていた。

その中華料理屋は、出前もしていたのだが、
一人前からでも、出前をしてくれた。
最初は、スプーンがついてなかったので、
その点を電話で指摘すると、
お客さんが返してくれないことが多いので、
スプーンは出前にはつけないようにした、という。

しかし、私なら信用できると、
以後、スプーンをつけてくださった。
もちろん、私も、スプーンをくすねるようなことはしなかった。

一人前から出前してくれたところは、
この中華料理屋だけではなかった。

東京では、こうした柔軟な対応をしてもらうのはなかなか難しいが、
特に雪の深い夜に、出前をしてくれるのは本当に助かった。


雪といえば、歩くのに難儀した。

寒さは、札幌市内だとどんなに寒くても
-10℃程度だったので、何とか耐えられた。
そうはいっても、
寝るときにどうしても布団から出てしまう顔が
冷たくてしょうがなかった思い出はある。

ただ、雪上歩行だけは最後までうまくできなかった。
何度ころんだことか。

しかし、地元の子どもたちは平気で走り回る。

  信じられん…

普通のドライバーの運転テクも半端じゃない。
スピードとブレーキをかけてからの滑走距離とが
きちんと頭に入っていて、
車を滑らせながらも、ピタリと横断歩道の手前で止める。

ある冬の晩、タクシーに乗った。
しばらくすると、突然、
スリップしてタクシーのお尻が大きく振れた。
その瞬間、私は、死ぬ、と思った。

が、運転手さんは、まったく慌てることなく、
今まで見たこともない見事なハンドルさばきで、
何事もなかったように、車体を元に戻す。


夏に赴任したばかりのとき、
歩行者がみんな譲り合って歩くのを見て、
驚いた。
東京都心だったら、肩と肩がぶつかるのは日常茶飯である。

冬になって分かったのだが、
雪の獣道は一人分の幅なので、
たしかに譲り合わなければ通れない。


私はお酒を飲めないので、お酒の席があると、
いつも割り勘負けしてしまう。
つまり、他の人が飲むお酒の一部を
毎回おごっていることになる。

このことに気がついてくれたのも、
札幌国税局でいっしょに働いた仲間たちだけである。


じゃがいも、ラーメン、アイスクリーム、魚、肉、野菜等々
食べ物は何でもおいしい。
ホッケも、東京で食べていたのは何だったんだ、
と思ってしまうくらい大きい。
なんたって、皿からはみ出ている。

  人は親切、食べ物はおいしい、
  札幌最高!北海道最高!

ただ、よそ者というか、お客さん扱いされている面はある
というのは、北海道の方々自身もおっしゃっていた。


もちろん、良い面ばかりではない。

まず、問題は春である。
雪に隠れていた吸い殻がわんさか出てくる。
とにかく汚い。
喫煙者が、冬の間、吸い殻を雪の上に捨てまくるのだ。
一瞬にして火は消える、そして、
吸い殻自体も上から雪がすぐに降り積もって、
見えなくなるからである。

また、ラーメン屋にしても、
おいしいことはおいしいが、
麺もスープも同じような味がするお店が多い。
これは、大手の麺製造業者などが限られていることによるらしい。


そして、最後に、非常にセンシティブな問題ではあるが、
同和問題を十分理解されている方が少ないということである。

以下の話も聞いた話なので、真偽のほどは定かではない。

ある日、ある男性が、北海道のとある税務署にやって来て、
若い税務署員に、自分は同和出身者である旨告げると、
その署員は
『グリム童話がどうかしましたか?』
と真顔で答えたという。
そして、その男性は、その税務署の幹部に
きちんと教育をしておけ、
と言い残したということである。

いかにも嘘っぽい話である一方、
然もありなんという話でもある。

少なくともいえることは、東日本では、
この問題について知らない人が多いということである。
私自身も、国税の職場に入るまで、問題の存在さえ知らなかった。

ただ、何度職場研修に参加しても、
講師の弁護士らは、人権とは何ぞや、という講釈をたれるだけで、
核心部分には決して触れない。
だから、私の知識も生半可なままで、
変に差別意識だけをうえこまれてしまったような気がする。

何も知らなければ、差別も生まれようがない。
でも、知らないことも問題…

すみません、よく分かりません。


  
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おもろい話やで | 日記
私は、一年間だけだが、札幌国税局で、
税金を払ってくれない滞納者から、
税金を回収するという仕事をしていた。

今回は、そこで経験したお話しをしたい。

税金を払ってくれないない人は
簡単には払ってくれない。

だから、職員が税金を使って滞納者の所にうかがい、
払ってもらうよう催促する。

ある日、右翼と称するお方の所にうかがうことになった。
憂うつになった。

ただ、ベテラン職員の方と二人で行ったので、
ちょっとだけ安心だった。

右翼と称する方のお宅に到着。
幸い、事務所ではなかった。

私は、当時、
法律を守らないような滞納者相手に礼儀は不要
と、勝手に思っていた。

だから、いっしょにいたベテラン職員の方が
きちんとご挨拶しているかたわら、
私は無言でおじゃまする。

いきなり、怒鳴られた。

  挨拶くらいしろ!

私は、変な反抗心があって、無言でいた。

  右翼なら、税金払ってくれよな…

その後も、相手の攻撃は続く。

『住専とやらで、税金の無駄使いしやがって!』

「税金を払わないあなたがいうことじゃない。」

こんなことを言うのは、火に油を注ぐようなもの。
その瞬間の私は冷静でなかった。

相手の言うことは、正論から脅しに変わっていく。

『お前、俺が何者が知っていっているんだろうな!』
『血気盛んな若い者が黙ってないぞ!』
『お前の住んでいるところなんか、分かってるぞ!』
『お前にも家族がいるだろ!』

私は、思った。

  住んでいるところは、宿舎の最上階で一番奥の部屋だから、
  トラックで突っ込むこともないだろうし、
  猫の死骸とか、糞尿をばらまくにしても一苦労。
  実際にそうされても、私の財産じゃないし…(すみません)
  
  俺が独身とかっていうことまで知っているのかな?
  両親は、東京の病院で二人そろって入院中だから
  まず大丈夫だろう…

だから、私は、法律は守ってくれ、といったようなことを
繰り返し言っていたような気がする。

すると、お前は何様のつもりだと、怒鳴られる。
大人げない私は、

  私がいっているのではない、
  法律がいっているだけだ、

みたいなことを言っていたと思う。

ベテラン職員の方が私もなだめる。


帰り際、その右翼と称する方は、
笑顔で私にこう聞いてきた。

『お前、いくつだ。』

私も笑顔で答えた。

「三十代ですけど。」

  なんだ、俺のこと全然調べがついてないじゃん。


後日、数千万円が納められていた。



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おもろい話やで | 日記
この前のブログでは、
少しだけ下品なお話しを披露してまったので、
今回は、マジメな実話を。


みなさんの中にも、
ヨーロッパの人たち、特に南のほうの人たちは、
駐車をするとき、一台分のスペースがなくとも、
前後の車にぶつけながらスペースをつくってからとめる、
そんな話を聞いたことがある方も多いと思います。

私も実際に目にしたことがあり、
そして、パリ駐在の日本人の方からは、
こんな話まで聞いたことがあります。

ある日、運転をしていたら、
フランス人が運転する車に
後方からぶつけられたと、
そして、その日本人の方もフランス人も
車から降りましたと。

そして、そのフランス人は、
車を道路の脇に寄せろ、という。

すると、その日本人の方が自分の車を脇に寄せるやいなや、
そのマダムは、
『ほら、ちゃんと動くじゃない。』
と、のたまわって逃げようとしたと。

確かに、パリの街中では、
バンパーや車体がへこんだ車が何台もバンバン走っており、
車体は身を守るもので、車は走れさえすればいい、
そんな発想が強いようではあるが…

さすが、というほかない。

靴を買って、箱を開けたら、
両方とも右側の靴が入っていたので、
お店に苦情をいって突き返したら、
『買ったときに箱を開けて確認しなかったお前が悪い。』
と、いわれたという話も聞いたことがある。

日本人も簡単に謝ってはいけない、とはいわれているが、
その兼ね合いがなかなか難しそうである。


自己責任という話で思い出したのが、
夏の南仏を走る列車。

みなさん、”世界の車窓から”かなんかの
のどかな風景をイメージしてません?

あの列車、そんな生易しいものではないんです。
少なくとも私が実際に乗った列車は。

ヨーロッパのほうは気候が乾燥しているので、
真夏でも日本ほどは不快感がない。
だから、列車につけても、建物につけても、
冷房施設を見るのはまれであった。

そして、私の乗った南仏列車にも冷房がない。
でも、真夏なので、暑いものは暑い。
だから、窓も全開。
ここまでは、一昔前の日本と同じ。

違ったのは、乗降用の扉も全開、ということ。
ロープが一本張ってあるだけ。

日本だったら、故障で乗降用扉が閉まらなければ
列車を運行させるようなことは決してしない。
乗客が落ちたら会社の責任になるからである。

こちらでは、落ちたやつが悪い、ということになる。

実際、その時の乗客は、気持ちよさげに、
走る列車がつくる南仏の強い風を
体いっぱいに浴びていた。

そういえば、風光明媚な崖っぷちに行っても、
柵が設けられているのを見たことがない。

これも、落ちたやつが悪い、ということか。


それでは、最後に、
南仏で目撃した信じられない光景を一つ。

それは、親子連れのフランス人がサイクリングを楽しんでいる、
そんな、ほほえましい光景であった。

その親子が自転車を止め、休憩。
どうやら、フランスパンを食べるようである。
その父親は、食事前に子どもの手を洗ってあげようとするも、
周りに水道とかはない。

そこで、自分が持っていた ”エビアン”の水で
洗ってあげることにしたらしい。
その父親は、子どもが手にしているパンを取り上げ、
”エビアン”で手を洗ってあげる。


その取り上げたパンを地べたに置いて…



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おもろい話やで | 日記
私は、パリに二年間暮らしていたことがあるのだが、
そのときに見て、経験したおもろい話をいくつか紹介したい。

前半は、ほんのちょっとだけエロイ話を。

私がパリにいたのは、OECD(経済協力開発機構)という
国際機関に勤務していたからである。

当時の私の直属の上司は、
弁護士のアメリカ人女性だった。

部屋は、原則、個室なのだが、
ある日、彼女の部屋で二人きりで話をしていた。
本当に何の話をしていたのか、まるで思い出せないのだが、
会話の中で ”性別”という単語を言いたかった。

そのときに、私の頭の中に浮かんだのは、
パスポートだった。

そこで、私は、彼女に向かって、
"SEX" "SEX" "SEX" と連呼してしまった。

彼女は顔を赤らめていった。

『タカシ、そういう時は "gender" っていうの!』

そこは、アメリカンジョークで "OK" と
切り返してほしかったところではある。

が、おそらく、そう返したら本当に襲われかねない、
それほどの勢いだったのかもしれない。



私は、大学時代に陸上部に所属していたこともあり、
当時、ヨーロッパ中のフルマラソン大会に出場していた。
パリマラソンはもちろんのこと、
イギリスのロンドン、
ドイツのベルリン、
ギリシャのアテネ、
スイスのローザンヌ(バレエではありません。)、
デンマークのコペンハーゲン、
スウェーデンのストックホルム(ただし、これだけは10K走)、
そして、ヨーロッパではないが、知人がいたということで、
中南米コスタリカのサンホセマラソンにも出場した。

今回は、コペンハーゲンマラソン大会前日のお話し。

前日に、ある会場で受け付けをしてゼッケンをいただくのだが、
その会場の片隅に、怪しげな場所が。

のぞいてみると、マッサージが受けられる。
しかも、日本円にして600円ポッキリ!

  これは、受けるしかない!

大学時代は、よく部員どうしでマッサージをし合っていたが、
社会人になって一度もマッサージを受けたことがなかった。

そこでは、ポッチャリ型の中年のご婦人四名と、
スレンダーでモデルのように綺麗な若い娘一名と
合計五名でマッサージをしていた。

どの女性にマッサージをしてもらえるかは、
順番による。

私は、場合が場合だったので、つまり、
緊張していてはマッサージを受ける意味がないので、
5分の4の確率にかけて順番を待っていた。

が、大当たり。

さっさとジャージを脱ぎなさい、という合図。

では、まずは、うつ伏せからと…

ランニング用パンツを履いていたので、彼女からは
私の大事な物の一部が見えていたはずである。

太ももをマッサージしてもらっていたとき、
彼女の指先がその先にツンツンと触れる。

私は、翌日のペース、しかも考えたこともない数百メートルごとのペースのことなど、
一生懸命に余計なことを考える。


そして、本当の危機はその後にやって来た。

それは、仰向け…


最後は、マラソンではなく、観光で
オランダはアムステルダムの赤線地帯に行ったときのお話し。
決して、私が利用したという話しではない。

そこは、もはや怪しげな場所ではなく、
観光客でごった返していた。
各国各社の団体旅行用の旗があちこちでみられる。

娼婦とある男性との交渉が成立すると、
拍手と歓声さえ起こる。

あるお店の前に立ったとき、
"Sex Show" という文字が見えた。
おそらく、ストリップ劇場だとは思われるが、
そこには、英語のほか、各国のことばでも書かれていた。

日本語では…と、

そこには、オマ(マは鏡文字)〇コショーとあった。

  きっと、関西人に教わったにちがいない。


後半のマジメなお話しは別の機会に。



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新聞の読み方 | 日記
バスケ部顧問の体罰で大阪の高校2年生が自殺


報道によると、この顧問の体罰は常態化しており、
昨年9月にも、この教諭らによる体罰を指摘した通報があったという。

この通報を受け、学校は
この顧問教諭だけに聞き取り調査をし、
生徒には聞き取りを行わなかったという。

しかも、この顧問教諭は、体罰があったという通報に対し、
”えっ”とかいってとぼけ、体罰を否定したという。
それだけで、学校と大阪市教育委員会は、
体罰はなかったと結論づけたらしい。

実は、副顧問の教諭二人もそばにいて体罰を黙認していた
というから最悪だ。
顧問は副顧問二人にとって恩師だったから、
何もいえなかったらしい。
しかし、
恩師なら殺人、といいすぎなら犯罪を見過ごしていいのか。

そして、昨年末、
体罰を受けた生徒が自殺。

そこで、ようやく、市の教育長が再調査の意向を示した。

 自殺がないと、生徒にきかないの?


しかも、体罰でいったん停職処分を受けたバレー部顧問が
処分後再び体罰をし、
それにもかかわらず、校長は、
教育委員会に報告をしなかったことが、後日、発覚。
その理由は、この顧問教諭の将来を考えたためというから、
もう頭がどうかしている。
生徒のことは考えなくてもいいの?
と、誰でもすぐにつっこみたくなる。


これこそまさに、私が先の12月28日付のブログで指摘した

「学校、教育委員会は、いじめを否定するところから始める。
 自殺しない限り、警察もとりあわない。

 社会の犯罪は、警察が取り締まり、裁判所が裁いてくれる。
 学内の犯罪は、誰も取り締まってくれない。

 武道家の先生ではなく、
 警察官にいつもそばにいてほしい、
 でも、現実的でない?

 犯罪なら学校内が一番!

 だって、無法地帯だもん。」

の例である。

いじめっ子と教諭という違いはあるものの。


生徒を自殺に追い込んだほうのバスケ部顧問は、
大阪市教育委員会の再調査で、体罰につき

『選手の気持ちを発奮させたかった。
 試合でミスが続くと、たたくことで、良くなることがある』

と説明したという。


この言い訳の中で、指摘したい点が二つ。

一つ目は、
生徒さんのご遺体の唇は切れ、
頬は腫れていたらしい。

これが、気持ちを発奮させるレベル?

どうどうたる傷害罪である。


二つ目は、
仮に体罰が発奮をうながす程度だったとしても、
体罰を受けて発奮する子もいれば、
傷心するだけでやる気を失せる子もいる。

たしかに、この教諭がバスケ部の顧問になってから、
この高校は全国の常連校になったらしい。

だから、この顧問教諭に肩をもつ意見もある。

ただ、人間にはいろいろな性格の持ち主がいる
という至極当然なことを忘れているのではなかろうか。

教諭だけでなく、会社の上司とかもそうだが、
生徒や部下の性格によって叱りかたを変えたほうがいい。
そうしないと、叱る意味がない。
叱るというのは本当に難しいことなのである。

かくいう私も叱ることができない。
というか、叱りたくなる人物はたいがいもう立派な大人で、
叱ったところで、反発するだけの
もうどうしようもない人物ばかりだからである。

この顧問教諭の場合、生徒を一緒くたに考えていた節がある。
もし、そうなら、この教諭には生徒に体罰を加える資格はない。


また、叱ると怒るとを混同している人が多い。

相手に対する愛情なんかまるでなく、
たんに自分の気分が害されたから怒るという人ばかりだ。


私が生まれてはじめて ”叱られた”と感じた例を一つ。

私が、OECD(経済協力開発機構)という国際機関で勤めていたとき、
上司は、アメリカの女性弁護士だった。

私がはじめてある英語の報告書をまとめたとき、
彼女からえらくほめられた。

そして、また、別の報告書をまとめ、彼女に提出した。

しばらくして、電話が鳴った。

『タカシ、私の部屋に来なさい』

「O.K.!」

と、のんきな声でこたえた。


国際機関だから個室が原則であるが、
通常、部屋の扉は開いたままにしておく。

彼女の部屋に入ったとき、
扉を閉めろ、といわれた。

 やばい…

彼女から叱られた。

『なんだ、この英文は、
 この前は、あんなに立派な英文を書いていたのに、
 本当にがっかりだ。
 タカシならもっとしっかりした英文書けるでしょ!
 やり直し!』

たぶん、こんなことを言われた。
口調はえらく厳しかったが、
私への愛情がひしひしと伝わってきた。
だから、叱られてもすがすがしい。

要は、最初にほめられたもんだから、
私は慢心していたのである。

小学校の担任の先生に叱られて以来である。
ただ、小学生のときは愛情を感じる能力はなかった。


ちなみに、人を叱るときは、
相手の立場を考え、
他の人にはみられないようにするのが
グローバルスタンダード。

日本では、場所がないとうこともあるが、
人前で ”怒る”ことが多い。


その後、報告書を書き直して、再び提出したとき、
その上司は、内容を見ずにそのまま受け取った。


私を選挙で破った文部科学大臣は、
教育委員会への指導を強める意向を示した。

しかし、生徒への聞き取り調査をしない
高校の調査結果をそのまま認めるような
性根の腐った教育委員会、
このようなことを何度も繰り返すような
腐った教育委員会を指導しても仕方がない。

そんなことよりは、日本の学校でも、
この上司のような先生を増やすことのほうが
大切なのではなかろうか。



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東大合格のための勉強方法 | 日記
国会議員になってみたい。

仕事をしているうちに、考えるようになった。

ただ、私は知名度ゼロ。
どうすれば、知名度を上げることができるか?

  そういえば、昔、
  110キロ台のボールしか投げられないのに
  プロ野球選手になれた東大出身のピッチャーもいたな…

東大出身者だからニュースにもなる。
東大というブランドはすごい。

現在も、クイズ番組を中心に、
東大生、東大出身という括りでテレビに出られる。

関係ないが、いつの間にか、女子アナもそんな存在になった。
噛んだほうが人気が出て、芸能人の登竜門と化している。


  東大に通う国会議員って、目立つ!

そう、思ったのが東大受験を決めた直接のきっかけではあった。

ただ、学歴コンプレックスというものが
根底にあったのも確かだ。

20代半ば、私にとっての大恋愛をしたことがある。
と、いってもお付き合いさせてもらったのは
三か月足らずではあるが。

ふられた本当の理由は分からない。

ただ、彼女がよく口にしていたのは、
元カレが東大卒で、会話に教養がにじみ出ていたが、
私にはそれが感じられないということ。

例えば、みなさん ”鹿野山”って読めます?
私は、これを ”しかのやま”と読んでしまいました。
そうしたら、彼女は大笑い。

  昔(1979年)、トラの脱走事件があって
  あれだけ有名になったのに、なんでちゃんと読めないの?

この山は、”かのうざん”といって千葉県は君津市にある山だ。


本当は、東大出身ということと教養があるということとは直接はリンクしない。
しかし、受験生時代には気にしていなかった東大というブランドが
頭から離れなくなってしまった。

それからというものの、今までの人生、
学歴を書いたいり、言わなければならないことが
それこそ、何百回とあったが、その度に釈然としない思いが…

それに、同じことをいうにしても、
東大出身者がいうのと、それ以外の人がいうのとでは、
信用力がまるで違う。

学歴が人生を左右するといっても過言ではない。

会社や役所の採用時に痛感した方も多いはず。
就職にしても、先ほどの野球界や芸能界にしても、
最後は実力だが、スタートが有利であることに間違いない。
職人という学歴不要の世界でも、邪魔にはならない。

要は、東大出身者は有利なスタートをきることができる。
そして、優越感を味わえることもできる。
私の場合、こうしたメリットを享受できる年齢ではもはやなかったが…


そして、もう一つ、実際に受験を決意させたまっとうな動機は、
大学できちんと勉強したかったということ。

社会に出て初めて、勉強の必要性を痛感させられる。
なんとも皮肉なことである。

特に、税務という職業はそうである。
経済や簿記はもちろん、民法、刑法、会社法、訴訟法
そして憲法といった基本法が深くかかわっているので、
本当に、大学できちんと法律、経済を勉強したいと思った。

また、税務調査先の会社の方などとお話しをするときにも、
ある程度の教養は必要である。

さらに、OECD(経済協力開発機構)に勤務をしていたとき、
職員らと話をするにしても、英語力そのものはもちろん、
世界や日本の政治、歴史・文化、教養等々が必要で、
そして、何ごとも個人的見解をもつことが必要であることを、肌で感じた。


だから、週末や祭日などは一日中勉強した。
予備校でも、年齢がいっていたにもかかわらず、
一番前の席で聴講していた。
したがって、年齢も比較的近かったということもあり、
講師ともすぐに打ち解けることができた。

平日も、仕事の前や後に、余裕があったら勉強をしていた。

なお、短時間の勉強で東大に合格できた ”秘密”は、
”お受験勉強の方法”というカテゴリの
この私のブログをご覧いただきたい。



いよいよ合格発表の日。

テレビカメラに映りたくなかったので、
合格発表の掲示板を見ることができる時間ギリギリの時刻に行く。
周りに人影はまばら。
マスコミのみならず、胴上げ要員の学生さんの姿もない。
この時、私は悲観的だった。
不合格した場合のこれから一年の勉強スケジュール、
シミュレーションで頭がいっぱいであった。

ドラマにあるように、上から順番に番号を見る。


が、見つかる瞬間というものは、
意外にあっさりしたものである。

一人ガッツポーズしようとしたが、
うれし涙のほうが先行しかける。
が、こらえた。

人生で三番目にうれしかった。
なぜ、三番目と分かるかというと、
うれし涙をどれだけこらえることができたかで分かる。

ちなみに、今までうれし涙が出そうになったのは
この合格発表のときも含め三回のみ。
一番うれしかったときは、おいおい泣いてしまった。
二番目にうれしかったときは、ギリこらえられなかった。
そのときのお話しは、また、別の機会に。


早速、休学を考えた。そして、
実際に選挙で立候補することが決まったら復学、
そう考えた。

だから、両親には言わなかった。
二人の性格からして、私が退職しないか不安がるのは
目に見えていたからである。
不安がらせるのは、候補者となってからでいい
そう、思った。

当時、私の東大合格を知る者は、
ほんの一部の友人だけであった。

そうそう、あともう一人。
名前も存じ上げない、
当時の都立城東高校の事務職員の方。

よく、この喜びを誰に最初に報告しますか、
という質問があるが、
私の場合、この見ず知らずの職員の方だった。

この方は、非常に喜んでくださった。
というのも、城東高校からは、
東大合格者はめったに出ないからである。

そして、この時、
私が高校時代にお世話になった先生方は
既にいらっしゃらなかったので、
教頭先生にも伝えておいていただきたい旨お願いした。

が、伝えてはくれなかったのか?

城東高校のHPには、在校生、卒業生も含め、
合格した大学とその人数を
過去数年分公表していたのだが、
いつまでたっても、”東京大学”という名前が載らなかった。

翌年、当時の教頭先生に直接電話で、合格した旨
伝えるも、やはり載ることはなかった。

あの時の職員の方は、あれだけ喜んでくださったのだから、
おそらく、伝えてくださったはず。
わが母校が私の東大合格を認めてくれなかったのか…


後日、東京大学の職員の方から、
休学ではなく、退学してくれといわれた。
私は、当時公務員の身分だったので、
休学でも職務専念義務違反になるおそれがあるという。

職員の方が非常に困ったような表情をされていたことと、
休学も、退学も同じか、と思ったこともあり、
いったん入学して、即4月1日付で退学。

ただ、入学する以上、健康診断を受け、前期の授業料も納めた。
健康診断を受けた際、看護職員の方に、すぐ退学するんですけど、
というと
『もったいないわね』
とおっしゃってくださった。

なお、当時は、辞職して立候補することはなかった。


それから十数年、実際立候補するも、
復学の手続きをする間などなかった。

そして、選挙で敗れたのち、
復学の手続きに東京大学に訪れたのであるが…



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新聞の読み方 | 日記
2013.01.09(Wed):介護・福祉問題
自民、公明両党が、特例で1割に据え置かれている
70~74歳の医療費の病院窓口での負担を
本則の2割に引き上げる時期について、
2013年4月からの実施の見送りを決めた、

というニュースについて、
1月9日付のある新聞の社説が
以下のようなことをいっていた。


  この見送りは、若者より投票率の高い高齢者にかかわる改革は
  今夏の参院選後に先延ばしし、
  選挙への影響を抑えるのが狙いとみられる。
  しかし、将来世代への負担を減らすためにも、
  2006年に成立した法律どおりに
  全対象者の負担を一斉に2割にすべきだ。

といいつつ、社説の後半では

  窓口負担は年齢で区別するのでなく、生活が苦しい人は軽減し、
  余裕のある人には応分の負担を求める方向で改革を進めてはどうか。

ともいっている。

一瞬、矛盾していると思った。

しかし、こう解釈した。

  この論者にとっては、
  70代は、生活が苦しかろうが、
  負担割合は全員一律2割にすべきである
  ということが大前提。

そして、こう推測した。

  この論者、年金生活者の実態を知らない。

私も、亡くなった父の介護をし、かつ
自身が無職になって、年金生活者のご苦労が
なんなく分かったような気がした。

  収入が少ないから、出費は極力抑えたい。
  それなのに、介護費用や医療費などでお金がかかる。

介護費用や医療費などがかかることは、
父が存命中に実感した。

そして、
収入が少ないから、出費は極力抑えたいということは、
無職になって実感した。

選挙運動中、何人かの有権者から
悲痛ともいうべきお願いをされた。

”介護を受けているのに、
 なんで介護保険料を払わなければならないんだ!
 なんとかしてくれ!”

自身が無職であることを実感できなかったこのときは、

  介護保険料を払って、介護を受けるなんて
  当然じゃないか。

そう、思った。

しかし、無職になったことを実感した現在、
よく分かる。

私のばあい、健康で介護も受けていないが、
健康保険や年金の掛金にかかる出費は
無職の身にとってつらい。
これに介護費用や医療費がかかったら
確かにたまったものではない。


人は自分の体験にもとづいて語る。

当然のようだが、実は、これほど大切でかつ危険なことはない。

例えば、

私は、お酒が飲めない。

と、いうと、たいていの人は、
飲みが足りないからだ、という。

それは、たいていの人が飲酒を重ねてお酒に強くなったからである。

しかし、私も学生時代は運動部に所属していたので、
はじめのころは飲酒を ”すすめられていた”が、
何度吐いてもいっこうに強くならない。

アルコール分解酵素がないからである。
この酵素は、約2万年前の中国大陸で突然変異でできたらしい。
したがって、生まれつきお酒の飲めない人はアジアに多く、
欧米人は少ない。

だから、この酵素の存在を知らない人は、
飲酒を重ねれば、お酒に強くなる、
と判断しがちなのである。

私がOECD(経済協力開発機構)という国際機関に勤めていたとき、
周りの職員は欧米人ばかりだったので、
生まれつきお酒が飲めないという概念がない。
だから、お酒が飲めないというと、
宗教上の理由?
と、よくきかれた。

そこで、私も、アルコール分解酵素うんぬん
というのを英語でいうのが面倒くさかったので、
つい、

  仏教徒だから

とごまかしていた。

最近のお坊さんは、飲酒される方もいらっしゃるようだが…


ところで、
お酒を飲めない人が飲酒を強要されるということはどういうことか?

みなさん、自分の苦手な食べ物や飲み物は何ですか?
そう、まさに、その食べ物や飲み物を無理やり
食べさせられたり、飲まされたりするようなものなのである。

そして、食べられないのは、食べる量が少ないからだ、
といわれたら、どう思われるだろうか?

また、お酒の飲めない人にとってつらいのがお会計。
他人が飲んだ分まで支払う。
よく、結婚式の二次会で女性のほうが
会費が安いということがある。
本当は、お酒の飲めない人のほうを安くしてほしい。

OECDに勤めていたとき、よく出張先で、
他の職員とバーなどに行く機会があった。
そこでは、彼女ら、彼らは、
私にお酒をすすめるようなことは決してせず、
お会計もきちんと自分が飲食した分だけを払っていた。

しかし、ウーロン茶がなかったので、
コーラばかり飲んでいるのも、別の意味できつかった…

それにしても、欧米人は、本当にアルコールに強い。

OECD内の食堂内では昼間からワインが飲める。
昼ごはんを食べながらワインを飲んでも、
午後からふつに仕事ができてしまう。

街中でも、まっ昼からワインをたしなみ、
夜も、酔っぱらっている人やゲロをしている人は
ほとんど見かけたことがない。


日本では、お酒がコミュニケーションを円滑にする。
酔った勢いで舌はなめらかになり、本音も話せる。

他方、私がOECDで勤めていたときの狭い ”体験”から察するに、
ヨーロッパでは職員どうしのコミュニケーションの中心は昼ごはんである。
だから、食べるのが異常におそい。
昼休みは、食べるより、話すためにある。
しかも内容は、キリスト教関連の話や、徴兵制があるので拳銃の話とか
日本人の私にとってついていけないものも含め、多様。

日本のように、お昼ご飯を黙々とかきこむだけだと
コミュニケーション能力に欠けているとみなされてしまう。

勤務後は、職員どうしで飲みに行くということがない。
ただ、夏休み前とクリスマスの年二回ほどは
職員どうしの ”飲み会”はある。
ただ、彼女ら、彼らはアルコールに強いので、
酔った勢いでコミュニケーションをとっているようにはみえない。

本音は、昼休みだろが、勤務中だろうが、ガンガンくる。


日本とヨーロッパ(これも、かなりざっくりとした括りだが)
どちらが正しいというわけではない。
ただ、お酒を飲めない私にとっては、
後者でのコミュニケーションのとり方のほうが
ありがたい。

私は、時おり、酒の席になるとおとなしくなるね、
と指摘されることがある。
ただ、みなさんも、嫌いなものがコミュニケーションの
手段だったら、つらいですよね。


さて、お話がお酒にそれてしまったので、
体験が重要でかつ危険であるという話にもどらさせていただきたい。

私の父は、母が亡くなって十年以上経って、亡くなった。
母が亡くなったころは寝たきり状態であったが、
ヘルパーさんなどのおかげで、
かなりヨロヨロではあるが、杖をついて歩けるようになり、
そして、また動けなくなった。

この十年の間で、父が一番元気だった頃の話である。
その頃は、70歳以上は都営交通が無料だったので、
父が地下鉄に乗るといった。
そして、私は父に付き添い、いっしょに階段を
ゆっくり、ゆっくり下りていた。
そのとき、あるご婦人が、

『むこうのほうに、エレベーターがありますよ。』

と、親切に教えてくださった。
ただ、エレベーターのあるところまでが、
あまりにも遠かったので、
そこまで行くよりは、階段を下りてしまったほうが
楽だったのである。

バリアフリー、バリアフリーといわれているが、
駅のエレベーターは改札口前にないと、
あまり意味がない。
工事の関係で、設置場所に制限があるのはたしかだが、
こうしたことは、体の不自由な方が身近にいないと
なかなか分からないことではないのだろうか。


大阪市では、高齢者より子どもの教育に力を入れている。
したがって、高齢者にとっては、
病院に通う交通が不便になるなど影響が出はじめている。
ここから推測できることは、
橋下市長は子どもの教育でご苦労はされているものの、
おそらく高齢者介護の経験はないのであろう、
ということである。


高齢者は真冬でもサンダルをはく
という一見不思議な光景も、
高齢者が身近にいたことがあれば分かる。
高齢者にとっては、腰をかがめるのがつらいので、
靴をはくのも難儀なこととなる、
ということは、正月のブログでも紹介した。


TVのニュース番組で、
保育園児の声が騒音になっているという
問題を取り上げていたとき、キャスターは、
子どもが大声を出すのは本能的なところがあるので、
寛容であってほしいですね、
と、まさに他人ごととして、のんきにしめくくっていた。
正論だが、自ら現場にいき、
その騒音なるものを体験していたならば、
もっと厚みのあるコメントができたはずである。


在沖縄米軍駐留基地の問題が、
あれだけ長年、沖縄の方々が基地反対の声を上げているのに、
いっこうに解決しないのは、
私も含め沖縄以外のほとんどの住民が、
このキャスターと同じだからかもしれない。

国会から遠いという問題はあるが、
総理大臣、防衛相、外相、そして防衛省や外務省の役人が
沖縄に居住すれば、問題は解決するのかもしれない。


原発問題にも同様のことがいえそうである。


いろいろ述べさせていただいたが、
体験をしないと分からないという経験の重要さ、
そして、自らの体験だけで判断することの危うさ
この両方を理解してくださると幸いである。



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新聞の読み方 | 日記
2013.01.07(Mon):経済・税金問題
安倍総理は、景気刺激策として、アベノミクスの三本の矢、
つまり、財政出動、金融緩和、成長戦略をかかげている。
ここでは、財政出動、大規模な公共投資について述べたい。

ところで、なんで、公共投資や財政出動が
景気を押し上げるの?
っていうか、公共投資とかって何?


実は、プライドの高い教科書には答えがない。

そこで、私の推測。

公共投資とは、道路や橋などをつくること。
そのためには、道路や橋などをつくってくれる会社に
お金を払う必要がある。
そして、会社から、お給料をつうじて、
実際につくってくれた人たちにもお金がまわる。

このお金は、国とかが払うんだけど、
それは、私たちみんなが払った税金。
道路や橋などを必要としているのは、
私たちみんなだから。

それで、なんで景気がよくなるの?

ここからが、問題。

そもそも景気がいいとは、
私たちみんながたくさん買い物をしたり、
会社が売るもんをつくるための機械とかを
たくさんつくったり買ったりすることをいう。
そして、外国にものをたくさん売ることも。

なんで?

それは、お金が回るから。
しかも、株や土地といった本来必要のないもの
に回ったら、それはそれで不健全。
今の若者が知らないバブル経済がそうだったように。


さて、まず、第一関門。

道路や橋とかをつくっている会社が、
もらったお金をためこまないこと。
ちゃんとお給料を上げたりしないと、
そこで勤めている人たちが今までより
たくさん買い物をするということはないから。

でも、たいがい、経営者は景気がよくならないと
給料を上げようとしないのが現実。

たとえば、平成14年~平成19年の5年間、
リーマンショックが起きる前の日本経済は
”いさなぎ景気”を超えるほど好調だった
といわれているんだけど、
会社はもうかったお金をためこんで
お給料がそんなに上がらなかった。
だから、私たちみんなは景気がいいと実感できなかった。

そこで、安倍総理は、
給料を上げた企業には減税措置をとる意向を示した。


次に、もう一つの関門。

道路や橋とかをつくって、
会社から給料をもらった人たちが買い物をしてくれればいい。
そうすれば、他の会社ももうかり、
そこで勤めている人たちの給料も上がる。
ものが売れそうになれば、
会社もそれをつくるための機械や工場とかを増やしたりする。

会社にお金が足りなくとも、銀行が貸してくれればいい。
このとき、銀行が貸すためのお金の量を増やすのが金融緩和。

さらに、買ってくれそうな新商品を考え出すために
研究とかいろいろと工夫をする余裕もでてくる。

つまり、給料が上がっても、
私たちみんながたくさん買い物をしなければ、
会社も新しい商品を考えだしたり、
機械や工場を増やそうとはしない。

銀行が会社にお金を貸してくれることも必要。

みんなが、年とってから生活が大変になるので
今から貯金をしておこう
と思ったら、景気はよくならない。
だから、年をとってからも安心して生活できるようにすることも
大事な問題として国会とかで話し合われている。


要は、この公共投資でお金をもらった会社が
お給料を上げたりするのかどうか、
お給料をもらっている人たちがお買い物をするのかどうか、
そして、銀行が会社にお金を貸しれくれるのかどうかが、
アベノミクス成功のカギとなる。
そこで、金融緩和も打ち出しているのだが、
それは、後ほど。

また、会社が新しい商品つくるためにいろいろな工夫をするとか、
みんなが新しい商品を買いたくなるとかも。

今の株価の上昇とかは、景気がよくなったからではなく、
アベノミクスへの期待にすぎない。
ただ、企業やみんなの気持ちが明るくなるという効果はある。

これが失敗したら、国、つまり私たちの借金が増えるだけになってしまう。
そうすると、国債の金利が上昇し、住宅ローン金利も上がる。
そしたら、みんなは、金利の支払いに備え、消費を抑えだす。

せっかく景気がよくなっても、消費税率が8%、10%と上がったとき、
消費が落ち込むおそれもある。

こうしたとき、アベノミクスは、取り返しのつかない失敗となる。


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東大合格のための勉強方法 | 日記
私は、以前、教科書に書いてあることは
抽象的でかえって分かりづらい、
分かったつもりでも、本当は理解していない、
こうした旨のことを書きました。

よく「木を見て森を見ず」といわれますが、
逆に、外から森を見ただけでは十分ではありません。
つまり、教科書だけ読んでも
真に理解することは、多くの人にとっては難しいはずです。

木は広葉樹なのか、針葉樹なのか?
木の幹は太いのか、細いのか?
実は、森林砂漠といわれているものではないのか?
土壌は?森林の分布状態は?
その原因は?
日照の具合?公害?過去の天災?

枝葉まで見る必要はないでしょうが、
森の中にまで入って
以上のような状態まで分かってはじめて
その森を理解したといえるでしょう。

森の中に入らなくても外から見ただけで
すべてが分かってしまうという人もいらっしゃるでしょうが、
多くの人にっては至難の技のはずです。

抽象論やたとえ話はこのくらいにして、
具体的にお話をしましょう。

例えば、ある昔の世界史の教科書に以下のような記述がありました。

「オリエント社会では、大河の治水・灌漑のために、
 はやくから強力な宗教的支配を特徴とする神権政治が
 うまれ…前2700年ごろまでにシュメール人などの都市国家が
 多数建設された。」

ここからは、いきなり強力な支配体制が生まれたかのようにも読めますが、
実際はそうではありません。

都市成立期には、長老会などを中心とした「原始民主政」がはたらき、
対外戦争や内政の危機のときにだけ
一時的な指導者が臨時に選ばれていました。
そして、他都市国家との抗争など危機状態が長引くようになるにつれ、
一時的な指導者がしだいに長くその席にいすわり続け、
やがて専制的な支配者となっていったのです。

前6,000年ごろからはじまったエジプト文明でも、
西アジア文明との接触を機に各地の小王国が支配権を争いはじめました。
そして、上下エジプトを統一するファラオが誕生したのは
前3,100年ごろになってから、といわれています。
エジプト王朝時代の幕開けです。

国家が危機的状況にあるときには、
民主政治より、強い指導者や指導体制の誕生が求められ、
そして、良くも悪くも誕生するというのは、
第二次大戦中の軍部の台頭や大政翼賛会の誕生
にみられるように、歴史が物語っています。

だからこそ、
経済、外交・領土問題、震災などで
危機的状況にある現在のわが国にも
強い指導者が求められているのではないでしょうか。

ところで、なぜ、古代のオリエント社会では、
神権政治がおこなわれていたのでしょうか?

もちろん、社会が未開だったからでしょうが、
具体的には、
都市国家が大きくなるにつれ
強い統率力が求められていたなか、
支配権を神から受け継いだという神話が
住民支配に効果的だったからです。

しかも、メソポタミア文明とエジプト文明とでは、
神権政治のありかたが多少異なっていたようです。

前者について、教科書には
「最高の神官・戦士である王を中心に…都市の神をまつり」とあり、
後者については
「現身の神である王の専制的な神権政治がおこなわれた」
とあります。

つまり、エジプト文明のほうは、
政治的には大王、宗教的には現人神
という形の神権政治だったのです。

実際は2ページ分離れている上の二つの記載が
比較できたのかも、
教科書を読むうえでのミソとなります。

なお、わが国では、
古事記や日本書紀にある神話の体系が
全国制覇をめざしていた大和朝廷の政治目的と
深く関係していたのはあきらかです。
したがって、卑弥呼の時代はメソポタミア版、
大和朝廷の時代はエジプト版の神権政治がとられていた、
と考えてみるのもおもしろいかもしれません。

ただし、エジプトではやがて神官の勢いが増し、
それにつれファラオの威信は衰勢にかたむていきました。
そして、新王国時代には、ファラオはアモン神の使徒にすぎなくなります。
と同時に、民衆の地位も向上し、
すべての人が神になって復活することができるという
民間の来世信仰が広まっていきます。
そこで、初めてミイラづくりの風習が広まったのです。

やはり、以上のようなことも教科書からは直接読み取れません。


若干話がそれてしまいましたが、
ここで申し上げたかったのは、

いきなり専制政治が降ってわいたかのように始まったのか?

なぜ、神権政治だったのか?
未開だったからなんだろうけど、具体的には?

神権政治の内容は?その変化は?

と、疑問をもって調べようとする姿勢が大切だということです。

神権政治より前の政治体制そのものが試験で問われることは
ないでしょうが、そういう勉強姿勢が大切だということです。

ただ、いちいち調べる時間もないでしょうから、
それをめんどくさがらず説明してくださる先生が
いらっしゃれば、それがベストなのですが…

また、欲をいえば、ある事象について、
現代を含めいろいろな時代に
思いをめぐらせてみてはいかがでしょうか。

東大の入学者募集要項にも、
「入試の選択科目に偏ることなく、
 現代の複雑な社会現象を捉える眼を養うことが期待される。」
とあります。


さて、次に、以下のような教科書の記述についてです。

「こうした神権政治をおこなった各都市国家は、
 治水や灌漑によって生産力を高め、
 外国と交易して必需物資を手にいれ、また、
 たがいに覇権をきそって戦った。
 そのため、支配層に莫大な富が集まり、
 壮大な神殿・宮殿・王墓などがつくられ、
 豪華なシュメール文化が栄えた。」
 
まず、以上の記述から疑問に思っていただきたいことは、

「必需物資」って、具体的には何?
「そのため」の「その」って?
「富」って、具体的には何?
「交易」の相手は?

といったことです。

「必需物資」とは、まず、
シュメールを含む南メソポタミア地方では、
なかなかとれない小ムギ、ブドウ酒、オリーブ油などであった
と思われます。

ただ、より注目すべきは、金、銀、銅といった鉱物も
交易によって手に入れていたということです。
なぜなら、南メソポタミア地方は鉱産物がとれる
ような土地ではなかったからです。

したがって「富」とは、金、銀、銅などの鉱物のことです。
もしかして「必需物資」も、支配層にとっての「必需物資」
である金、銀、銅といったものだったのかもしれません。

要するに、
南メソポタミア地方では鉱物がとれなかったので、
金、銀、銅なども交易により手に入れ、
支配層に富が集中したということなのです。

ただ、交易先は、諸説あり、はっきりしていないそうです。

トルコのアナトリア高原が鉱産物の宝庫であり、
メソポタミア北部のアッシリア人がはるばるやって来て
現地人と、メソポタミアの織物などと鉱物とを交換していたそうです。
やがて、アッシリア人はこの高原を商業植民地化してしまうのですが、
年代含め、これが「富」や「必需物資」と関係があるのか
よく分かりません。


とにかく、教科書を読むうえで問題なのは、
以上のようなことが読みとりづらい
ということなのです。

「必需物資」が何であるのか、また
「そのため」の「その」が何を指しているのか、
こうしたあいまいさも、教科書を読みづらくしている理由です。


次は

「しかし他方では、たえまない戦争のため、一般人民は苦しみ、
 国家はおとろえて、セム系のアッカド人に征服された。」

という記述です。

これだと、一般人民はたえまない戦争だけに苦しめられた
ようにも読めますが、実際は、
不定期的におこる洪水といった天災や泥などとたたかい、
豊凶の差に苦しみ、
さらに収穫したものの多くを小作料としてとりあげられた
ことでも、苦しんでいたはずです。

ですから、多分に悲観的で、厭世的な叙事詩も
たくさん残されているそうです。

一般の農民は、こうした苦しみは
本当は支配者層の搾取によるものなのに、
そうとは気がつかず、あるいは気がついていたとしても、
苦しい状況から逃れるためには神々に祈るしかない、
農民らにそう思わせたのも、
まさに神権政治の「効用」だったのかもしれません。


さらに

「アッカド人は一時メソポタミアやシリアの都市国家を統一して、
 ペルシア湾と地中海をむすぶ広大な領域国家をつくった。
 
 やがて同じセム系のアムル人のバビロニア王国がおこり、
 ハンムラビ王のとき全メソポタミアを支配し、
 運河の大工事によって治水・灌漑をすすめた。
 王はまた王自身による統治の制度をかため、
 ハンムラビ法典を制定して、中央集権をはかった。」

という記述についてです。

まず「アッカド人は…広大な領域国家をつくった。」という表現と
「ハンムラビ王のとき…中央集権をはかった。」という表現との
差に気づくことができたか、ということです。

実際、アッカドのサルゴン王朝時の地方総督は、
司法を含め独立的な権力をもつ副王のような存在でした。
これに対し、ハンムラビ王のときの地方総督は、
司法、財政の権限はなく、純粋に行政上の問題のみを処理し、
しかも、こうした政務についてさえ、定期的に中央へ報告する
ことが義務づけられていたそうです。

ある意味、地方自治体が行政上の問題さえ
国から全面的にまかされていない今の日本よりは、
地方分権が進んでいるようにも思えますが…

また、上の記述からは、アッカド人の支配から
いきなりバビロニア王国の支配に移行したようにも
読めますが、実際はその間にウル第三王朝が
百年以上続いてます。

しかも、この王朝、ハンムラビ法典より古い
世界最古のウル・ナンム法典を制定するなどして
アッカド人がめざした中央集権的な体制を
完成の域にまで高めたといわれています。

さらに、シュメール行政文書のうち、
この王朝時代のものが圧倒的に多いそうです。

つまり、ウル第三王朝も歴史上無視できない存在だったのでしょうが、
教科書からは直接知ることができません。


ちなみに、エジプト文明でも、前3,100年ころに
上下エジプトが統一され、ファラオが登場した後でさえ、
当初は、州の自治制はおおはばに認められていたようです。
さらに、ファラオに対する従属関係にしても、
貢納や有事の際の軍事義務を負う程度の緩いものだったそうです。

各地の騒乱がすべておさまり、エジプトが完全に統合されるまでに
さらに約400年かかっています。
ここで、ようやく、ピラミッドを建設できるくらいの
多くの労働者を動員できるようになったのです。

ちなみに、この400年間を初期王朝時代といいます。
今から400年前といったら、江戸幕府が始まったころです。


最後に

「都市国家では、最高の神官・戦士である王を中心に、
 神官・官僚・戦士などが政治・経済・軍事の実権をにぎって、
 自由民や奴隷などを支配する階級社会が成立した。」と

「この(ハンムラビ)法典は復讐法の原則に立ち、
 また被害者の身分によって刑罰がちがっていた。」

という記述です。

実は、この二つの記述、1ページ分離れています。
上のようにつなげれば、
ハンムラビ法典が身分法であった背景が分かりますが、
教科書をボヤっと読んでいるだけでは、気がつきません。

ちなみに、ハンムラビ法典、
被害者の身分によって刑罰がちがっていただけではなく、
加害者の身分によっても刑罰がちがってたのですが、
これも教科書を読んでいるだけでは、分かりません。

いずれにせよ、
教科書の記載を丸暗記しようという考えでは
合格はおぼつきません。

そもそも、そんな丸暗記は無理ですし、
仮に暗記できたとしても、
憶えたことをそのまま吐き出せば正解となるような
試験問題は、少なくとも良識ある大学では出ません。

かくいう私も、高3、一浪のとき、
歴史は丸暗記と誤解していたので、
社会が必須科目となっている大学学部は、
文系のくせに受験しませんでした。

当時の共通一次(センター試験に相当)も、
暗記量が少ないとされた「倫理社会」と「地理B」で受験し、
世界史、日本史は社会人になってから本格的に勉強しました。


教科書は、以上のように、数ページ分だけでも
ツッコミどころ満載です。
このようにツッコミを入れながら、
歴史を勉強してみてはいかがでしょうか。

ただ、その解答を知るのには、身近に先生がいないと、
時間がかかってしまう
というのがネックにはなりますが…

それにしても、
専門的な勉強をしたあとに教科書を読み返したときに、
はじめて、教科書がいかにまとまった良書なのかが分かり、
また、わざと表現をあいまいにしていることや
微妙な言い回しをしていることまでも、
その理由とあわせて、
気がつくようになるというのは、
皮肉としかいいようがありません。

いったん森の中に入ったあと、
もう一度外から森をながめてみてはじめて
森全体がきちんと見えてくるように。

森の中で迷わないためには、目次と表題が重要です。
読むことに夢中になると、今読んでいるところの
全体の中の位置づけが分からなくなります。
そんなときは、目次をみて、位置を確認しましょう。
そして、表題をみて、今まで読んできたことの内容や
これから読む概要も把握しておきましょう。


それから、次に厄介なのが
歴史上の人物や制度、戦いの名称などについてです。

これは、もう、憶えるしかないのですが、
東大の場合は、幸い、日本史では出題されません。
世界史でも、難関私大のように
受験生を落とすためだけの
どうでもいい枝葉はきいてきません。
歴史上意義のある、かなり太い枝をきいてきます。

例えば、ギリシアでとられた
市民が僭主になるおそれのある人物の名を
陶器の破片に書いて投票する制度の名称が
問われたことがあります。

この制度は、古代文明でありながら、
市民の意思をまがりなりにも政治に反映させた制度として
意義があるので、
このくらいの名称は知っておいてね、
という出題者がわの意図が伝わってきます。

最近ですと、日本への原爆投下を命じた
アメリカ大統領の名前が問われています。

ただ、この場合、トリッキーなのは、教科書には
そのまま書かれていないということです。

かといって、教科書に書かれていないことが
出題されたわけではありません。

教科書には

「4月ルーズヴェルトの急死後大統領となった
トルーマンは、7月…ポツダム宣言を発表した。
そして、8月6日、アメリカは広島に原爆を投下し…」

とあります。

実際の文書では「トルーマン」と「広島に原爆を投下」との間に
二行はさまっていますので、
この文章をふつうに読んだだけでは、
原爆投下を命じたのがトルーマン大統領であることが
頭の中にすんなりは入ってこないと思います。


とにかく、世界を舞台に活躍しようという人にとっては、
外国人とコミュニケーションをとる上でも、
歴史を学んでおくことは必要不可欠です。
この私自身の実体験は、
別の機会に紹介させていただきたいと思います。


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新聞の読み方 | 日記
2013.01.05(Sat):外交・安保問題
1月3日、韓国・ソウル高裁が、
靖国神社を放火した中国人を
中国に引き渡すことを決定した。
日本政府が、日韓引渡し条約に基づき、
その身柄引渡しを要求してきた
にもかかわらずである。


まず、ソウル高裁は、
今回の放火が、日韓引渡し条約の
”政治犯罪”にあたるからだという。

”政治犯”とは、本来、国の秩序・統治を
暴力的手段をもって転覆させようとする犯罪のことをいう。

けっして、政治的思想に基づく犯罪すべてをいうのではない。
そうであれば、政治的信条に基づいていさえすれば、
どんな罪も犯していいことになってしまう。

政治犯は、世界的にも、身柄引渡しの対象からはずされている。
というのも、それが自由主義的な行動であり、また、
本国に戻されれば迫害されるおそれがあるからである。
つまり、独裁国家における犯罪や専制政治に対する犯罪を
おもに念頭においたものなのである。


また、ソウル高裁はこうもいっている。

『日本に引き渡すことは韓国の政治秩序と憲法理念だけでなく
 大多数の文明国家の普遍的価値を否認するものだ』

もはや、感情論でしかない。
しかも、中国人と共通する反日感情。

だから、中国は大歓迎である。

反日に関しては、韓国と中国は共闘する。


それでは、なぜ、韓国人や中国人は
これだけ強い反日感情をいだくのか?



かつての日本軍が韓国と中国に酷いことをしたから?

それだけであれば、
アメリカが何十万人という民間人の頭上に
絶対落としちゃいけない原爆を二回も投下したのだから、
つまり、これ以上とない非人間的なことをしたのだから、
多くの日本人が強い反米感情をいだくはずである。
しかし、そうはなっていない。

こうした韓国・中国とわが国との違いは、
どこからくるのであろうか?

おそらく教育にある。

韓国や中国では、学校はおろか、家庭内でも
子どもが小さいときから、
過去の日本軍からどれだけひどい目に合わされてきたのか
ということを徹底的に教え込む。

そうしたことを教え込むための
展示館や博物館も多数ある。

一種の洗脳である。

たとえ、伝えている内容が事実であったとしても、
日本からいかに酷いことをされてきたかという側面だけを伝える。

1965年の日韓基本条約や1972年の日中共同声明、
そして、これらに基づく協定などで、
補償問題は政治決着をみている。

わが国は、有償、無償にせよ、韓国と中国に対し
事実上の補償の意味もこめ、
莫大な額の資金を供与をしてきた。
こうして、両国の経済発展やインフラ整備にも貢献してきた。

しかし、こうした事実は伝えない。

大人になって、知った者がいたとしても、
すでに反日感情を刷り込まれているのだから、
こうした事実を棚上げにしたり、無視をする。

自分か小さいころに教わったことは、
そのまま信じて疑わない。
体中にしみこんでしまっているから。

これでは、将軍様のいる北朝鮮と変わりない。

ただ、日本でも、初代韓国統監である伊藤博文や
朝鮮出兵をてがけた豊臣秀吉の負の部分を
もう少しクローズアップして教えてもいいのではないか。

こうした両国の教育の違いから、
伊藤博文と豊臣秀吉は、日本では英雄だが、韓国では悪人となる。
このことは、その是非はともかく、
韓国人と交流する際は、竹島問題とあわせて、忘れてはならない。

普段どんなに仲のいい韓国人でも、中国人もそうだが、
日本との政治問題の話になると態度が豹変する。

私も実際に経験したが、
そのお話は別の機会にさせていただきたい。


さて、先ほどのソウル高裁の決定も、
”政治犯罪”を曲解したり、
理にかなわないことを抽象的なことばでひっくるめるなど、
裁判官の反日感情に基づくものであることは明らかである。

裁判官は、本来、中立・公正でなければならない。
しかし、韓国の裁判官はそうではない。
誠にゆゆしき問題である。



次に、疑問なのは、とくに中国についてであるが、
ヨーロッパ列強の植民地支配を受けてきたのに、
なぜ、ヨーロッパ人に対する反感は強くないのだろうか?

19世紀の中国(清王朝)では、イギリスの貿易政策により
インドのアヘンが大量に流入してきたためアヘンが蔓延。
加えて大量の銀が流出したため、社会が疲弊していった。
そのため、中国はアヘンの密輸を厳しく取り締まり、
イギリスとの貿易も制限した。

これにキレたイギリスが自由貿易を名目にアヘン戦争をしかけ、
中国はこれに敗れた。
以後、日本やヨーロッパ列強による中国の植民地支配が始まった。
フィリピンやグアムに進出したアメリカも、途中から、
自分も中国利権に与らせろ、そうしないと許さないぞ~
と列強各国を脅し、ちゃっかり利権の恩恵を受けた。

それなのに、なぜ、中国では、
イギリス人をはじめとするヨーロッパ人への反感は
そんなにみられないのだろうか?

なぜ、学校や家庭では、対欧米ではなく、
対日問題に偏重した教育がなされているのだろうか?

もう170年近く前のことだから?

いやっ、日本に対する中国人の恨みつらみは
200年程度では消えない。

そのころの中国は清王朝だったから?

それとも、日中が近隣諸国どうしだからこそ?

どちらも正しいのかもしれない。
理由は、いろいろ考えられる。


しかし、私の個人的見解は、こうだ。

それは、黄色が黄色をやっちゃったから。
白人様に逆らうなんて、とんでもない!
大きいし、見た目も違う。
しかし、日本人は同じ黄色のくせに生意気だ!

はっきり申し上げて、人種偏見的思考である。

ただ、他の人種とめったに会うことなく育つと、
肌の色が違うと自分たちとは違う人間、
という一種動物的感覚をもってしまうのは
仕方がないことではないだろうか。



二十年も前の話で恐縮だが、
私は、OECDの職員といっしょにモンゴルの首都ウランバートルに赴いた。
そこで、西側諸国の税の仕組みや税の調査といったことを
現地の税務職員にお伝えしたときだった。
私だけが現地の職員によばれ、次のようにいわれた。

『白人から教わるよりは、
 OECD加盟国で唯一同じ肌の色をしたアジア人である日本から、
 できれば教わりたい』と。

なお、OECDとは、先進国が加盟する国際機関であり、
日本は1964年に加盟し、アジアの国では他に韓国が1996年に加盟している。


また、ベトナムのハノイにいったときのお話。
あるお寺にお参りしようと、
拝観料がとられていないことを確認した上、お寺に近づいた。
とっ、いきなり現地の方から拝観料を請求された。

つまり、こういうことだったのである。
私が確認したときは、白人観光客が次から次へと
お寺に入っていったのだったが、
その現地の方は白人には何もいえなかったのである。
ただ黙って見過ごしていたのである。
そこへ、同じ肌の色をした私がやって来たものだから、
こいつには請求できる、と思ったのだろう。

なんとなく、この突っ立っているだけの現地の方の存在が
気にはなっていたのだが…


次に、肌の色が親近感を生んだお話。

韓国ソウルに、OECD職員と出張し、
空港から出て、タクシーに乗ろうとしたときである。
みんなの荷物がたくさんあったので、
運転手さんが荷物を後ろのトランクに入れようとしたとき、
いっしょにいたOECD職員は
運転手さんに英語でまくしたてながら行き先を告げていた。
英語の分からない運転手さんは
非常に困惑し、緊張した面持ちだった。

と、その運転手さんは、私を見つけるやいなや、
ほっ、とした表情に変わり、
私に韓国語で話かけてきた。
今度は、こちらが困惑する番だった。


また、ポーランドではこんなことがあった。
とある田舎の空港で、見知らぬ韓国人と出会ったとき、
どちらからともなく、話しかけた。
彼はビジネスでポーランドに来ていたということだが、
お互い、数週間、東洋人を見かけておらず、
なにか、東洋人が懐かしいという感覚をもっていた。

飛行機に乗っていても、隣の席に欧米人が座ったときは、
お互い話しかけるということは少なかった。
しかし、なぜか、隣の席に韓国人が座ったときは、
いつのまにか話をしていた。


さらに、世界税関機構という国際機関の会議に
出席したときのお話。
世界税関機構の加盟国数は、
国連加盟国とほぼ同じで、180近い。
だから、アジア、ヨーロッパ、アフリカ、南北アメリカ
といったように、あらゆる人種がいる。

休憩時間のときである。
私は、なるべくいろいろな方と話そうと、
フランス語でチュニジア人に話しかけた。
が、相手にしてくれない。
自分のフランス語がサバイバル程度にあることに加え、
チュニジアのことは、カルタゴ遺跡のことくらいしか知らない…
当然といえば、当然。厳しい…

結局、アジア人が集まるグループに加わったが、
周りを見渡すと、見事に同様の人種どうしが
集まって会話をしていた。

ちなみに、私は日本代表ではなく、
OECD代表として出席していたので、
他のアジアの国々の代表から
どうすればOECDに加盟できるのか、とよく聞かれた。

「お金をつめばいいんだよ。」

と冗談半分に答えておいたが、あながちウソではないと思う。


厄介なのが、人種差別につながるとき。

パリでホテルの従業員に卑屈になる日本人観光客も、
韓国ソウルでは横柄になる。もちろん、同一人物ではないが…

どちらも実際に見た光景ではあるが、
それが記憶として鮮明に残ってしまうのは、
私の心の奥底に差別意識があるからかもしれない。


次は、身に危険を感じたお話。
場所は、ポーランドの首都ワルシャワ。
街を歩いていると、突然、
十代後半のヤンチャな兄ちゃんたち十人くらいに囲まれた。

こういうときは、たいてい大げさな記憶になっているので、
実際は7~8人くらいだったのかもしれない。

”ヘイ、イエロー、ゴーホーム!”

  やばっ…

周りに人はいなかったものの、昼間であり、
そして、彼らは武器は何ももっていなかったので、
意外と冷静であった。

  スーツこれしかないんだけど…

出張できていた。

結局、見回して一番弱そうなやつに近づき、
一生懸命、ゴルゴ13の表情を思い出す。

  殺す

本気でそう思いながら睨み付け

「シット」

といったら、どいてくれた。

後ろから

”シット、シット”

という声が聞こえてきた。

そのトーンから

  おそらく、彼らは意味を知らない。

そう、思った。


なお、第二次大戦中のナチスも
同盟国であるはずの日本人に対する
差別感情をいだいていたようだ。

聞いた話で恐縮だが、ナチス手帳というのがあって、
見開きページの片方には、第一人類
そして、もう片方には、第二人類というのが載っているらしい。

第一人類の筆頭はもちろんゲルマン人、
そして、途中に、英語の奴隷(slave)を語源と曲解してスラブ人、
最後は、ユダヤ人である。

それでは、同盟国の日本人はどこ?

日本人は、同盟国だから、もう片方の第二人類の筆頭。
そして、途中にピグミー族といったアフリカ系の民族が並び、
最後は、類人猿である。

つまり、日本人は猿の筆頭だったのである。


フランスのパリで生活していたときは
ちょっと違う経験をした。

フランス人から何度も道をきかれたのである。

日本であれば、街を歩いている外国人に
道を尋ねられることはあっても、
道を尋ねることはない。

そのフランス人らは、肌の色で判断しているのではなく、
現地の人のにおいがするかどうかで、
道をきく相手を選んでいたのである。

パリなどの街にはいろんな人種がいる。
そんな環境で育てば、人種への偏見は
そもそも生まれないのかもしれない。

そいえば、当時、モンゴルで白人を見かけたのは、
いっしょにいたOECD職員だけだった。
ベトナムでは、白人は観光客くらいしか見当たらなかった。
一方、ポーランドでは、有色人種は、日本人観光客と
ホテルのクロークにいたアフリカ系の方しか見かけなかった。
フランスでも、田舎のほうにいくと、私は珍しがられた。

もっとも、ワルシャワのプラガ地区というところには、
旧東ドイツに出稼ぎに来たものの、
同国の入管行政が厳しくなってから、
ポーランドに不法に入国したベトナム人などが
たくさんいるらしい。
だから、私が、ポーランドの若者に囲まれたのも、
そうしたベトナム人らと間違われたからかもしれない。



私が、肌の色の違う人と会話をすることに少しでも抵抗がなくなったのは
英会話学校に通ってからである。

今の日本の子どもたちは、小さいころから英会話教室に通い、
小学校でもネイティブの先生と接する機会があるという。


今の日本の子どもたちには、われわれ大人より
うまく世界の人たちとわたりあえるようになってほしいし、
できるものと信じている。



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マラソンのお話 | 日記
日本体育大学が30年ぶりの総合優勝!


「下級生がキャプテン」

昨年の箱根駅伝で、
日本体育大学史上最悪の19位で終わった直後の
監督の英断である。

理由は簡単明瞭、
一番はやいからである。

ここに実力世界の厳しさがある。

経験年数とは無関係に結果が問われる。

それがもっとも如実にあらわれているのが、
プロスポーツの世界や芸能界。
結果がともなわなければ、クビ。
芸能界でも出番がなくなり収入激減。

もちろん、実力とは関係なく、
先輩・後輩という関係はある。
一応、実力のある後輩でも、どんな先輩であれ
礼はつくす。


これを履き違えていたのが、大学時代の私である。

私は、上智大学で陸上競技部に所属し、
5,000m以上の長距離種目を専門にしていた。
零コンマまで結果が問われる厳しい世界。

といっても、私の場合、
専門というにはおこがましいほど遅かった。

上智大学には、陸上をはじめスポーツ推薦がない。
だからというわけではないが、
同じ部員でもかなりの実力差がある。

私がいたころは、1,500mを3分台で走る先輩や
3,000m障害で全日本インカレの決勝まですすんだ同輩がいた。

このお二人、当時であれば、
箱根駅伝を走っていても、おかしくないほどの実力者である。
本当に、アスリートとして尊敬すべき方々なのである。

が、当時の私は、このお二人をすごいとは思っていたが、
尊敬の念までは抱いていなかった。

その理由は、実力と礼節との区別ができていなかったこと。

これは、同時に、私の記録が伸び悩んだ原因でもある。

実力のある後輩でも、私に礼をつくしてくれる。
全日本レベルの仲間とまったくいっしょの練習ができる。

後者については、陸上の一流校では、到底考えられないことである。
まず、一軍、二軍などに振り分けられる。
と、いうか、遅ければそもそも入部さえできない。
入部できたとしても、記録が伸びなければ、
退部か、マネージャーをいいわたされる。

マネージャーがよくないという意味ではなく、
アスリートとして扱われなくなるということである。

全日本レベルの同輩が私と仲良くしてくれ、
実力のある後輩が私に礼を尽くしてくれた。

それで、私は、いっしょに練習させてもらうことのありがたさ、
そして、自分の実力のなさを痛感できていなかった。

最悪なのは、本当に悔しいという気持ちがなかったこと。

だから、悔しさをバネに練習をしてきた後輩にも
記録を抜かされる。
自分が練習をサボっていたわけではない。
血尿が出るくらいは練習した。

おそらく、悔しいという気持ちの強さの違い。

プロの世界のように、
結果がそのまま自らの生活に影響してこないだけに
厄介である。


今の私は、選挙に落選し、無職だ。


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マラソンのお話 | 日記
日本体育大学が30年ぶりに総合優勝!


箱根駅伝の過熱ぶりが生んだ
アフリカ系選手の登場と長距離のレベルアップぶりは
関東インカレにも影響を与えた。

まず、日本学生記録。
アフリカ系選手が記録をつくれば、
日本の大学の留学生である以上、
立派な日本学生記録である。

だから、長距離種目に限っては、
日本学生記録が日本記録を上回る。


そもそも、関東インカレとは、各種目、
1位に8点、2位に7点…、8位に1点が与えられ、
総合得点で争われる関東の大学の陸上競技大会で、
毎年5月に、国立競技場(当時)などでおこなわれる。

上位16校が1部校で、その他の大学が2部校となり、
毎年、1部校の下位2校と2部校の上位2校とが
入れ替わる。

といっても、5,000m、10,000mといった長距離種目
に限っては、1部校と2部校との差が感じられない。

箱根駅伝に力を入れている大学のなかには
長距離種目だけは強いというところもある。
だから、2部校のレースといっても、
箱根駅伝常連校の選手が出場するわけだから、
とにかく、はやい。

この関東インカレ、誰もが出場できるわけではなく、
オリンピックのように、出場するために
突破しなければならない記録が設けられている。
つまり、このくらいの記録がなければ、
そもそも勝負になりませんよ、
という「標準記録」と呼ばれているものである。
この標準記録が、5,000m、10,000mに限っては、
1部校も2部校も同じなのである!
(ただし、B標準は異なる。)

こうした長距離偏重にキレた関東学連は、
箱根駅伝予選会にインカレポイントというものを設けた。
すなわち、長距離種目だけ強くても、
箱根駅伝に出場できないようなシステムを一部取り入れた
というわけである。

本日、日本体育大学が箱根駅伝で
みごとに予選会からはい上がって優勝したが、
私が学生のとき、関東インカレでちょっとした
思い出がある。

それは、日本体育大学の選手から、時おり、
遠くから挨拶されたということである。

おそらく、当時の上智大学のジャージが、
遠目でみると日本体育大学のそれと似ていたため、
疑わしきは挨拶を、
ということだったんだと思う。


さて、そのころ、つまり、
箱根駅伝がTVで生中継されるようになったころ、
標準記録の加速度的なインフレがはじまった。

私が大学2年生のころは、2部校であれば、
36分を切れば10,000mに出場できた。
しかし、その翌年、その標準記録が、
記憶はさだかではないが、グ~んと跳ね上がった。

その年、私は、法政大学で行われた10,000mの記録会で
35分台を出したが、時すでに遅しである。

「陸上の聖地、国立競技場で走る夢が…」

そう、思ったときである。
陸上競技部のなかまが私を胴上げしてくれた。

最初で最後の胴上げ

この記録、はっきり申し上げて、
大学で陸上をやっていた者としては
非常にはずかしい記録である。

しかし、
関東インカレに出場するより、
おそらくうれしかった。


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マラソンのお話 | 日記
日本体育大学が26年ぶりの往路優勝!


箱根駅伝の転換期は、おそらく1987年である。
まさに、日本体育大学が、前回往路優勝したころである。

それまでは、東京大学など陸上推薦のない大学でも、
血のにじむような努力で
箱根駅伝に出場できる余地はあった。

きっかけは、TV放映。
それまではテレビ東京のダイジェスト版だったのが、
1987年から
日本テレビ系で完全生中継されるようになった。

1月2日~3日と延べ12時間以上放映され、
その間、大学名が映り、連呼されるのだから、
大学の宣伝効果ははんぱない。

その頃から関東の大学は駅伝に力を入れはじめた。

まず、無名大学だった山梨学院大学。
私が上智大学で陸上競技をしていたころ、
関東インカレの2部で
山梨学院大が長距離種目で活躍していた。

どこの大学?
文字どおり山梨の大学なんだろけど…

みんな、そう思った。

そして、山梨学院大学は、
私も出場した箱根駅伝予選会を突破し、
その翌年、箱根駅伝に初出場。

そして、二年後、
  なんでアフリカの選手がいるの?
  反則!

そう思った。

ワキウリ選手と今は亡きオツオリ選手である。

その後、神奈川大学、中央学院大学、上武大学
といった、箱根駅伝がなければ
決してメジャーとはいえない大学が台頭してきた。

関東学院大学、帝京大学、拓殖大学、城西大学
といった他のスポーツでおなじみの大学も
駅伝に力を入れ始めた。

青山学院大学のように、かつての強豪校が
再び駅伝に力を入れはじめた大学もある。

関東学院大学は、かつて上智大学と対抗戦を戦った大学だったが、
いつしか相手にされなくなった。
帝京大学も、当時は、決して陸上が強い大学ではなかったが、
1999年に駅伝部が創設され、
今や箱根駅伝の常連校となった。

東海大学、亜細亜大学、国士舘大学、専修大学、筑波大学といった古豪さえ
何校も予選会で落ちるというレベルアップぶりである。

上智大学や、かつて箱根駅伝にも出場した東京大学など
陸上推薦のない大学が予選会を突破する可能性は、
もちろんゼロではないが、
それに近くなってしまっているのではないか。

アフリカ系選手の登場と長距離のレベルアップぶりは
関東インカレにも影響を与えた。

明日も箱根駅伝があるので、
そのお話は、明日にさせてください。



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おもろい話やで | 日記
「万と十を足して、まんじゅう!」

「こんな絵書いてないで、婚活しろよ!」

ほぼ同時に聞こえてきた。
マクドで新年を迎えていたときだった。

あるご家族のお父さんが
年賀状を見ていったおことばと、
そのお子さんがいったことば。

「せっかく丁寧に描いてくれてるんだから…」

これは、そのお母さんが、
お子さんのおもしろ発言を無視してまで
いったおことば。

私も賛成だ。
でも、お父さんはお父さんで
その年賀状の送り主のことがきっと
心配でたまらないんだろう。

  それにしても、
  誰か、つっこんであげて!
  本人いいっぱなしで全く気にしてないけど…


私は、よくマクドに行く。

なお、東京やブラジルではマックというが、
大阪とパリ、そしてフィリピンではマクドという。

大阪の人いわく、ミスドのことは
ミッスとはいわんやろ!
ちなみに、
パリでミスドは見かけなかった。
フィリピンは知らない。

どちらにせよ、長年通ってていると、
ある傾向がうかがえる。

女子高生の集団は、9割以上、恋愛ばなし。
既婚女性の集団は、9割以上、欠席裁判。
机を動かした人の9割9分9厘以上は、元に戻さない。

私のようなおっさんは、一人で新聞や本を読む。
受験シーズンになると、勉強する学生さんが増える。
しかし、しょっちゅう、携帯とかをいじったり、
友達といるときは、ほとんどおしゃべりをしていて、
意外と勉強に集中できてない。

そして、お年寄りはサンダルを履いている。

若い娘がいう。

「なんで、冬なのにサンダルはいてるのかしら?」

亡くなった父もそうだったが、
お年寄りにとって靴を履くという行為が
ものすごく難儀なのである。
腰をかがめるという行為が大変らしい。

  ま~お年寄りと暮らしていない
  若い子が不思議に思うのも無理はないか。


ある日、女の子がお母さんにだだをこねる。

『このハッピーセットのおもちゃ欲しい~』

”これは、男の子のおもちゃだから
 〇〇ちゃんはダメよ。”

『じゃ~男の子になる!』

  えっ?

”〇〇ちゃんは、男の子にはなれないの。”

『なんで~、男の子になりたいよ~、え~ん』

  えっ?えっ?


次も、耳がダンボになったお話。

『実は、いま、わたし人妻じゃないんです。』

”離婚したことなんか、
 お客さんに黙ってれば分かりっこないから。”

  う~、不景気とはいえ、
  そういう面接は、他でやってくれ…


病院が近くにあるので、
医者や看護師がいることも。
医者のバイトの時給は桁が違う!

子どもの空手大会で控えているバイトとか…
子どもは手加減しないから、案外負傷者が出るらしい。


やっかいなのが、喫煙者。
悪気がなく、禁煙席に座る。
昔は、各テーブルに
禁煙マークがなかったので、
いちいち、注意しなければならなかった。

そして、注意をすると
不愉快な表情を見せられることが多い。

カップルに注意するときは、安心だ。
男は、恋人の前では、ええかっこしいとするから、
たいがい素直に喫煙席に移動してくれる。
子どもの男のほうが、はむかおうとしても、
だいたい大人の女性のほうが止めてくれる。

ちなみに、タバコとは関係ないが、
カップルのために席を移動すると、
お礼をいってくれるのは決まって大人の女性のほう。
子どもの男性のほうは、お礼もよう言わない。



ある日、おじいちゃんがタバコを吸っていた。
『かわいい孫には、煙を吸わせたくないからな、』
と、いって禁煙ゾーンに顔をむけて煙をプハー、と吐く。
  
  禁煙者にも、煙を吸わせないでほしいんですけど…


一番厄介なのが、悪気のある強面な方々。
群れでしか行動できないので、
複数人ですごんでくる。
そういうときは、だいたい店員さんの
助けを求める。

ある晩、
やんちゃな兄ちゃんたちが
店の前で大勢で群れてすごむ。
私一人では何もいえないので、
近くの派出所に駆け込んだ。

やる気のなさそうな
おまわりさんが出てきた。
何か、やな予感がした。

『110番通報してください。
 通報がないと、われわれも動けないんで…』

威力業務妨害罪にあたるから
通報してもいいんですけど…

それにしても、さすがは、
学校内でいじめがあった、家庭内で暴力をふるわれた、
と訴えても微動だにしない警察。


私がマクドに ”通い”はじめたのは、30代前半のころ。
実は、そのころ、通っているうちに、
あるバイトの娘に恋をしてしまった。
今から思うと、身のほど知らず。

ラブレターを書いたものの、場所は他のお客もいる店内。
渡す機会がない。
そのころのマクドは、都内でもまだ24時間営業が珍しかった。
私は、彼女のサイクルを熟知していた。
閉店まぎわ、誰もいなくなった店内で、
モップを片手ににぎっていた彼女の空いているほうの手のひらに
ラブレターをおいた。

結果?

もちろん、加藤茶さんやラサール石井さんのようには
いかなかった。


明日は、どんなおもろい話が
まっているのだろうか。

私の失恋がみられるかも。



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