2015.05.30(Sat):政治活動
ある朝の駅前に着くと、
ヤンチャ風な若者数人がたむろしていた。

私が、
通勤・通学のみなさんに挨拶を始めて数分経つと、
そのうちの一人が私に近づき、

『そんなことしても、意味ねーよ』

と低い声でいってきた。

私は、以前テレビで、
“こんなときは無視するのが一番”
と芸能人らがいっていたのをきいていたので、
無視を決めこんだ。

その若者はいったん私から離れ、
他の若者とおしゃべりを始め、
しばらくすると再び私に近づいて来て

『だから、そんなことしても、
意味ねーって』

といってきた。

それでも私が無視し続けると、
その若者は再び戻って
他の若者とまたおしゃべりを始めた。

すると、他の若者がどこかに行き、
一人になった先ほどの若者が
三度私に近づいて来た。

ただ、これまでと違うのは、
私に手をさしのばしてきたことである。

私は、本能的に彼と固い握手を交わした。

すると、彼は話を始めた。

『もう少し、
自分のしたいことを言ったほうがいいっすよ。』

「でも、私は知名度がないんで、
まずは、みなさんに名前を知っていただかないと。
それに、みなさん足早に会社や学校に急いでいるから、
私が政策を訴えたところで、
みなさんの耳には届かないですよ。」

『でも、意味ないね。
ダンボールとかに政策書いて、
みんなの目の前までもっていって
それ見せるくらいなことしないと。
それに、俺なんか他の区だけど、
投票するときは名前なんか見ちゃいないし、
何をしたいかを見て決めるし…』

私は、自分が恥ずかしくなった。

まず、外見から、
この若者は政治なんかに興味はもっていないと
勝手に判断していたこと。

そして、
彼は、私をからかうのではなく、
他の若者とおしゃべりをしながらも、
私のことを気にかけてくれていたこと。

自分のことしか考えないことが多い私は
反省をした。


そして、他の若者が戻ってくると、
彼らは去って行った。

彼と私だけが、
右手を軽く挙げて別れの挨拶を交わした。


それから私は、
駅前の挨拶のことばの中に、

「政治の透明化」

というキーワードだけでも入れるようにした。



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もう一週間ほど前になるが、
今月の16日・17日と、
東京大学の本郷・弥生キャンパスで
“五月祭”なるものが催された。

要は学園祭なのだが、
これが本当にうまくできていると感じた。

どういうことかというと、
原則、入学したばかりの一年生が
飲食物などを売ったりするのがミソ!

私のクラスは、
とろーりチーズの溶けたオムレツで
焼きそばを包んだ
“オム焼きそば”を販売したのだが、
これが大盛況!

二日間、お客が絶えなかった。

これには理由があった。

つまり、チーズ入りの“オム焼きそば”という
アイデアがよかっただけでなく、
機材の準備から材料の調達、仕込みや調理まで、
手間暇のかかるものをチョイスしたにもかかわらず、
チームワークが驚くほどよかったからこそ、
うまくできたということである。

準備は、先月の入学早々から始まっていた。
許認可や機材入手などのための諸手続き、
看板の作成やTシャツのデザイン等々…。

ただ、私の場合、
江東区長選挙の準備、選挙運動
そして後始末・事後処理の時期と
ちょうど重なっていたため、
五月祭の準備については何もできなかった。

だからこそ、五月祭の前日の準備と
当日の二日間だけでも、
全力を尽くすつもりだった。

が、私に割り当てられたオムレツづくりが
ダメダメであることが判明。
得意の呼び込みに専念した。
朝の駅頭や選挙でノドは鍛えていたからだ。

『なんで、プロみたいなおっさんが
呼び込みしてるんだ?』
という当然の疑問を抱くお客さんに
丁寧に説明をしてくれる
クラスメートを遠目に見つつ…

当初は、“オム焼きそば”の予想以上の反響で
てんてこ舞いとなる場面もあったが、
これをチームワークでうまく切り抜けることができた。

私のように、
個人個人でみると得手不得手はあるが、
各人が適材適所で一生懸命になれたからこそ、
クラスとして成功した。

準備段階からクラスメートが協力し合うことで
各々の性格をはじめお互いをよく知り、親しくなり、
そして、絆が深まる。


そもそもは、
こうしたことを意図して始まったわけではなさそうだが、
五月祭が学園祭シーズンの秋ではなく春に、
しかも一年生が主体となって催されることの意味は、
ここにあるのではなかろうか。



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関東学生陸上競技対抗選手権大会
(関東インカレ)で
1,500Mの今季世界記録誕生!

エノック オムワンバくん(山梨学院大)
3分35秒69

どれだけ凄いことなのかというと、
50Mを7秒1台で走ったことになります。



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2015.05.09(Sat):2015 江東区長選

日もどっぷり暮れた後、
私が選挙カーを降りようとしたとき
後ろから
自転車が猛スピードで突進してきて、
開けた車のドアにぶつかりそうになった。

が、
その自転車が急ブレーキをかけて止まったため
ぶつからずにすんだ。

『てめえ、どこの高校だよ!』

それは、高校生どうしが
喧嘩を始めようとするときの決まり文句のようだった。
しかし、
その自転車に乗っていたのは高校生ではなく、
元ヤンキー風のサラリーマンだった。

無灯火で
駐車した車と歩行者用道路の狭~いところを
あえて突っ込んできた相手も悪いが、
降車するとき後ろを確認しなかった私も悪かったのと、
騒ぎが大きくなって
選挙活動に支障がでるのも避けたかったので、
素直に
「城東高校です」
と答えた。

すると相手は
『ちげーよ、何党だって聞いてるんだよ!』
と聞き直した。

私は笑いをこらえて、素直に
「無所属です。」
と答えた。

すると、元ヤンは、
振り上げた拳の下ろしどころが分からなくなり、
今度は、運転手さんに当たる始末。

運転手さんもただひたすら頭を下げると、
その元ヤンは納得した様子で去って行った。


もちろん全員ではないが、
こういうタイプは霞が関の役人に多く、
自分が上の立場であることが確認できれば
満足するのである。

だから、対処はしやすかった。



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2015.05.06(Wed):わたしの信条
先日、東大での英語の授業について、
軽く紹介させてもらったが、
ある授業で、“白熱教室”という
NHKの番組を日本語の字幕なしで聴いて、
感じたことをレポートにまとめる宿題がでた。

その内容の概略は以下のとおりである。

ある事故で負傷した者が五人いたと仮定して、
そのうち、ひん死の重傷者が一人で、
その者の命を助けようとする時間があれば、
残りの四人の命は助かるが、
その重傷者にかかりきりでいると四人の命は助からない
という設定で、あなただったら、
このひん死の重傷者の命を助けるか?
という質問が聴講者らに投げかけられた。

そして、
『このひん死の重傷者を助けずに、
残りの四人の命のほうを助ける。』
と答えた者が多数派だった。

そう答えた理由を問われると、
『多数のほうの命のほうを救うべきだ。』
という答えが多かった。
(一種の“トリアージュ”)

そして、話は続いた。

ある事故で負傷した四人が病院にかつぎこまれたとき、
そこに風邪気味なので診察してほしいという者があらわれ、
この者の臓器を四人に移植すれば、四人の命は助かる
という設定で、あなただったら、
この診察に来た者の命を奪って
事故で負傷した四人の命を助けようとするか?

という質問が聴講者らに投げかけられた。

そして、今度は、
『四人の命が助からないとしても、
診察に来た者の命を奪うことはできない。』
と答えた者が多数派だった。

先ほどの“多数の命を救うべき”
という答えとの矛盾をつかれると
『無実の者(innocent)の命を奪うのは正義に反する。』とか
『自ら手を下して人の命を奪うと罪悪感が生じる。』
という答えが多かった。


ここで私は、
“無意識のダブルスタンダード”
というものを感じとった。

それは、広島と長崎への原爆投下である。

私の狭い経験からあえていうと、
『原爆投下で数十万人の市民の命を奪っておかないと、
もっと大勢の日本人の命が奪われたはず。』
という米国がいう原爆投下の正当性を信じている者は、
特に日本以外では、想像以上に多い。

しかし、原爆で命を奪われた市民は、
上の後者の例え話でいう“無実の者(innocent)”、
つまり、死ぬ運命にある者ではなかったはずである。

にもかかわらず、
“多数の命を救うべき”という
前者の例え話の理由を引っ張りだしてくる。
つまり、原爆投下の正当性は、
『仮想上でも、多数の命を救うためであれば、
自ら手を下して無実の者の命を奪っても正義に反しない。』
ということになる。

それとも、
敵国の市民はもはや“無実の者”ではない、
ということになるのか。

もちろん、
私が見た白熱教室の聴講者の多数派が
米国のいう原爆投下の正当性を信じているとは限らないが、
おそらく、この矛盾には気がついてはいない。

世の中には、こうした類の人は以外に多い。
つまり、
自分の価値観だけが正しいと思いつつも、
そう思っていることにさえ気がついていないから、
それと矛盾した考え・行動をとることもある。
しかも、無意識に。


私もそうなのかもしれない。
自分で気がつくことは難しいから。



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東大に通学して一か月ほど経った今、
驚くのは、今の学生の英語力である。
特に、スピーキングとヒアリング力である。

私の若いころは入試にヒアリングはなく、
英語は読み書きさえできればよかった。
私が英会話を習ったのは、
社会人になって自分で稼ぐようになり、
英会話学校に通ってからである。

しかし、
英会話学校に通ったことがないと思われる子でも
おそらくは初級の上~中級レベルの会話ができる。
ヒアリングも、
私なんか何回聴いても聞こえてこない英語を
きちんと聴き分けられる子もいる。

そして、授業も充実していて、
英語だけで105分の授業が毎週2回あり、
教授は外国人であることが多い。
巷の英会話学校より、
会話をする機会は少ないが、
内容はかなり高度であるように思われる。

英語のレポートについても、
生徒同士が英語で議論をするのだが、
私が十代のころにはとても思いもつかない内容を
みんなきちんと書いてくる。


そして、
ある英語の授業で、こんなことがあった。

4~5人のグループで議論した後、
各々のグループの代表者が
他のグループの生徒に向かって
議論の結果を発表するのだが、
生徒みんなが教授に指名されるのを待っていると、
教授は、

『みんな小学生じゃないんだから、
私が指名するのを待つんじゃない。
自発的に発言しなさい。』

と、おっしゃった。

このとき、
十年以上も前になるが、職場での出来事を思い出した。
それは『全国○○局○○課長会議』
なるものがあったときである。

その会議で、自分が担当するパートだけ
司会進行役を務めていたのだが、
出席されていた方は
今の私よりも年上の方々だったので、
私から指名するようなことはせず、
出席者に自発的な発言を求めたのだが、
誰一人として発言しようとしない。

両隣に座っていた、当時の上司と先輩があわてて、
ほぼ同時に、私に向かって小声で、
『大都市局から順番に指名しなさい。』
と言ってきたので、私から指名した覚えがある。

私は、心の中で
『いい大人が…』
と情けなく感じながらも、順番に指名すると、
みなさん、用意した原稿を読み始めた。

この数年前、
OECD(経済協力開発機構)の会議で
各国の代表がわれ先に競うように発言し、
他国の代表の発言機会などおかまいなしに、
長時間演説みたいなものまで始める者もいて、
司会進行役が発言の整理に苦労をするという
そんな会議を経験した後だっただけに、
その対照的な様子が強く印象に残っていた。

もちろん、建制順に発言するという慣習や
話がしやすいという理由も分からないわけではないが、
見直してみたほうがいい慣習もあるはず。

何も考えずに
慣習さえ守っているのは楽なのであろうが…


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その日の朝も、
一声一声、感謝の気持ちをこめながら
通勤・通学のみなさんに声をかけていた。
しかし、
だんだんと選択の時間が迫って来た。

その日は東京大学の入学式であった。
そろそろ切り上げないと、式に間に合わない。

しかし、ここで去ってしまうと
挨拶を途中で止めてしまうことになる。

以前、東大を中退したのは入学式前だったから、
今回が最初で最後の入学式になる。

そう思い、私は
入学式の出席のほうを選択した。

私が挨拶を止めるのを待っていたかのように、
雨が突然降り出した。


入学式会場の武道館に到着するころには
雨は激しさを増していた。

『保護者はこちらじゃありません』

と言われないよう、常に
左手に傘、右手に学生証を握りしめていた。

その甲斐あって、
係員の方から何の注意も受けずに
すんなり武道館に入場できた。

格闘技やコンサートの聖地、
しかし、式開始間近に行ったため、
座らされたのは二階席だった。

同じ二階席には保護者用の席も見えた。
むしろ年齢的にはこちらのほうに座るべきか。

自分らの子どもが東大に入学。
さぞかし喜ばしいことであろう。
独身で子どものいない私でも、想像がつく。

おばあちゃんやおじいちゃんが
出席されているご家族も少なくない。

私の同級生のなかには、
地方から上京してきたおばあちゃんのために
東京を案内した子もいた。

私には祖父母はおろか両親もいない。
孤独であることが苦にならない私でも、
その日その時だけは、
さみしかった。


が、その数日前の
中学の同窓会の準備のため
居酒屋で数人集まったときを思い出した。

その時、
開始から一時間くらい経つと、
バースデーケーキが運ばれてきた。
四月の誕生日が二人いたからだ。

しかし、
一月が誕生日の私の名前も
チョコレートプレートにあった。

そう、いっしょに
東大合格を祝ってくれたのである。

さらに数か月前の一月にさかのぼると、
自分の誕生日のときには、
予備校で同級生の女の子二人から
『お誕生日おめでとうございます。』
と声をかけてもらっていた。

誕生日に声をかけられたのは、
亡き母がかけてくれて以来、
数十年ぶりであった。多分。


今までの選挙や、その後も
たくさんの方々から励ましの声もいただいた。

そう、私にも仲間がいる。


そう気がつくと、
選挙権のない同級生たちの姿が見えてきた。



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