新聞の読み方 | 日記
2013.01.05(Sat):外交・安保問題
1月3日、韓国・ソウル高裁が、
靖国神社を放火した中国人を
中国に引き渡すことを決定した。
日本政府が、日韓引渡し条約に基づき、
その身柄引渡しを要求してきた
にもかかわらずである。


まず、ソウル高裁は、
今回の放火が、日韓引渡し条約の
”政治犯罪”にあたるからだという。

”政治犯”とは、本来、国の秩序・統治を
暴力的手段をもって転覆させようとする犯罪のことをいう。

けっして、政治的思想に基づく犯罪すべてをいうのではない。
そうであれば、政治的信条に基づいていさえすれば、
どんな罪も犯していいことになってしまう。

政治犯は、世界的にも、身柄引渡しの対象からはずされている。
というのも、それが自由主義的な行動であり、また、
本国に戻されれば迫害されるおそれがあるからである。
つまり、独裁国家における犯罪や専制政治に対する犯罪を
おもに念頭においたものなのである。


また、ソウル高裁はこうもいっている。

『日本に引き渡すことは韓国の政治秩序と憲法理念だけでなく
 大多数の文明国家の普遍的価値を否認するものだ』

もはや、感情論でしかない。
しかも、中国人と共通する反日感情。

だから、中国は大歓迎である。

反日に関しては、韓国と中国は共闘する。


それでは、なぜ、韓国人や中国人は
これだけ強い反日感情をいだくのか?



かつての日本軍が韓国と中国に酷いことをしたから?

それだけであれば、
アメリカが何十万人という民間人の頭上に
絶対落としちゃいけない原爆を二回も投下したのだから、
つまり、これ以上とない非人間的なことをしたのだから、
多くの日本人が強い反米感情をいだくはずである。
しかし、そうはなっていない。

こうした韓国・中国とわが国との違いは、
どこからくるのであろうか?

おそらく教育にある。

韓国や中国では、学校はおろか、家庭内でも
子どもが小さいときから、
過去の日本軍からどれだけひどい目に合わされてきたのか
ということを徹底的に教え込む。

そうしたことを教え込むための
展示館や博物館も多数ある。

一種の洗脳である。

たとえ、伝えている内容が事実であったとしても、
日本からいかに酷いことをされてきたかという側面だけを伝える。

1965年の日韓基本条約や1972年の日中共同声明、
そして、これらに基づく協定などで、
補償問題は政治決着をみている。

わが国は、有償、無償にせよ、韓国と中国に対し
事実上の補償の意味もこめ、
莫大な額の資金を供与をしてきた。
こうして、両国の経済発展やインフラ整備にも貢献してきた。

しかし、こうした事実は伝えない。

大人になって、知った者がいたとしても、
すでに反日感情を刷り込まれているのだから、
こうした事実を棚上げにしたり、無視をする。

自分か小さいころに教わったことは、
そのまま信じて疑わない。
体中にしみこんでしまっているから。

これでは、将軍様のいる北朝鮮と変わりない。

ただ、日本でも、初代韓国統監である伊藤博文や
朝鮮出兵をてがけた豊臣秀吉の負の部分を
もう少しクローズアップして教えてもいいのではないか。

こうした両国の教育の違いから、
伊藤博文と豊臣秀吉は、日本では英雄だが、韓国では悪人となる。
このことは、その是非はともかく、
韓国人と交流する際は、竹島問題とあわせて、忘れてはならない。

普段どんなに仲のいい韓国人でも、中国人もそうだが、
日本との政治問題の話になると態度が豹変する。

私も実際に経験したが、
そのお話は別の機会にさせていただきたい。


さて、先ほどのソウル高裁の決定も、
”政治犯罪”を曲解したり、
理にかなわないことを抽象的なことばでひっくるめるなど、
裁判官の反日感情に基づくものであることは明らかである。

裁判官は、本来、中立・公正でなければならない。
しかし、韓国の裁判官はそうではない。
誠にゆゆしき問題である。



次に、疑問なのは、とくに中国についてであるが、
ヨーロッパ列強の植民地支配を受けてきたのに、
なぜ、ヨーロッパ人に対する反感は強くないのだろうか?

19世紀の中国(清王朝)では、イギリスの貿易政策により
インドのアヘンが大量に流入してきたためアヘンが蔓延。
加えて大量の銀が流出したため、社会が疲弊していった。
そのため、中国はアヘンの密輸を厳しく取り締まり、
イギリスとの貿易も制限した。

これにキレたイギリスが自由貿易を名目にアヘン戦争をしかけ、
中国はこれに敗れた。
以後、日本やヨーロッパ列強による中国の植民地支配が始まった。
フィリピンやグアムに進出したアメリカも、途中から、
自分も中国利権に与らせろ、そうしないと許さないぞ~
と列強各国を脅し、ちゃっかり利権の恩恵を受けた。

それなのに、なぜ、中国では、
イギリス人をはじめとするヨーロッパ人への反感は
そんなにみられないのだろうか?

なぜ、学校や家庭では、対欧米ではなく、
対日問題に偏重した教育がなされているのだろうか?

もう170年近く前のことだから?

いやっ、日本に対する中国人の恨みつらみは
200年程度では消えない。

そのころの中国は清王朝だったから?

それとも、日中が近隣諸国どうしだからこそ?

どちらも正しいのかもしれない。
理由は、いろいろ考えられる。


しかし、私の個人的見解は、こうだ。

それは、黄色が黄色をやっちゃったから。
白人様に逆らうなんて、とんでもない!
大きいし、見た目も違う。
しかし、日本人は同じ黄色のくせに生意気だ!

はっきり申し上げて、人種偏見的思考である。

ただ、他の人種とめったに会うことなく育つと、
肌の色が違うと自分たちとは違う人間、
という一種動物的感覚をもってしまうのは
仕方がないことではないだろうか。



二十年も前の話で恐縮だが、
私は、OECDの職員といっしょにモンゴルの首都ウランバートルに赴いた。
そこで、西側諸国の税の仕組みや税の調査といったことを
現地の税務職員にお伝えしたときだった。
私だけが現地の職員によばれ、次のようにいわれた。

『白人から教わるよりは、
 OECD加盟国で唯一同じ肌の色をしたアジア人である日本から、
 できれば教わりたい』と。

なお、OECDとは、先進国が加盟する国際機関であり、
日本は1964年に加盟し、アジアの国では他に韓国が1996年に加盟している。


また、ベトナムのハノイにいったときのお話。
あるお寺にお参りしようと、
拝観料がとられていないことを確認した上、お寺に近づいた。
とっ、いきなり現地の方から拝観料を請求された。

つまり、こういうことだったのである。
私が確認したときは、白人観光客が次から次へと
お寺に入っていったのだったが、
その現地の方は白人には何もいえなかったのである。
ただ黙って見過ごしていたのである。
そこへ、同じ肌の色をした私がやって来たものだから、
こいつには請求できる、と思ったのだろう。

なんとなく、この突っ立っているだけの現地の方の存在が
気にはなっていたのだが…


次に、肌の色が親近感を生んだお話。

韓国ソウルに、OECD職員と出張し、
空港から出て、タクシーに乗ろうとしたときである。
みんなの荷物がたくさんあったので、
運転手さんが荷物を後ろのトランクに入れようとしたとき、
いっしょにいたOECD職員は
運転手さんに英語でまくしたてながら行き先を告げていた。
英語の分からない運転手さんは
非常に困惑し、緊張した面持ちだった。

と、その運転手さんは、私を見つけるやいなや、
ほっ、とした表情に変わり、
私に韓国語で話かけてきた。
今度は、こちらが困惑する番だった。


また、ポーランドではこんなことがあった。
とある田舎の空港で、見知らぬ韓国人と出会ったとき、
どちらからともなく、話しかけた。
彼はビジネスでポーランドに来ていたということだが、
お互い、数週間、東洋人を見かけておらず、
なにか、東洋人が懐かしいという感覚をもっていた。

飛行機に乗っていても、隣の席に欧米人が座ったときは、
お互い話しかけるということは少なかった。
しかし、なぜか、隣の席に韓国人が座ったときは、
いつのまにか話をしていた。


さらに、世界税関機構という国際機関の会議に
出席したときのお話。
世界税関機構の加盟国数は、
国連加盟国とほぼ同じで、180近い。
だから、アジア、ヨーロッパ、アフリカ、南北アメリカ
といったように、あらゆる人種がいる。

休憩時間のときである。
私は、なるべくいろいろな方と話そうと、
フランス語でチュニジア人に話しかけた。
が、相手にしてくれない。
自分のフランス語がサバイバル程度にあることに加え、
チュニジアのことは、カルタゴ遺跡のことくらいしか知らない…
当然といえば、当然。厳しい…

結局、アジア人が集まるグループに加わったが、
周りを見渡すと、見事に同様の人種どうしが
集まって会話をしていた。

ちなみに、私は日本代表ではなく、
OECD代表として出席していたので、
他のアジアの国々の代表から
どうすればOECDに加盟できるのか、とよく聞かれた。

「お金をつめばいいんだよ。」

と冗談半分に答えておいたが、あながちウソではないと思う。


厄介なのが、人種差別につながるとき。

パリでホテルの従業員に卑屈になる日本人観光客も、
韓国ソウルでは横柄になる。もちろん、同一人物ではないが…

どちらも実際に見た光景ではあるが、
それが記憶として鮮明に残ってしまうのは、
私の心の奥底に差別意識があるからかもしれない。


次は、身に危険を感じたお話。
場所は、ポーランドの首都ワルシャワ。
街を歩いていると、突然、
十代後半のヤンチャな兄ちゃんたち十人くらいに囲まれた。

こういうときは、たいてい大げさな記憶になっているので、
実際は7~8人くらいだったのかもしれない。

”ヘイ、イエロー、ゴーホーム!”

  やばっ…

周りに人はいなかったものの、昼間であり、
そして、彼らは武器は何ももっていなかったので、
意外と冷静であった。

  スーツこれしかないんだけど…

出張できていた。

結局、見回して一番弱そうなやつに近づき、
一生懸命、ゴルゴ13の表情を思い出す。

  殺す

本気でそう思いながら睨み付け

「シット」

といったら、どいてくれた。

後ろから

”シット、シット”

という声が聞こえてきた。

そのトーンから

  おそらく、彼らは意味を知らない。

そう、思った。


なお、第二次大戦中のナチスも
同盟国であるはずの日本人に対する
差別感情をいだいていたようだ。

聞いた話で恐縮だが、ナチス手帳というのがあって、
見開きページの片方には、第一人類
そして、もう片方には、第二人類というのが載っているらしい。

第一人類の筆頭はもちろんゲルマン人、
そして、途中に、英語の奴隷(slave)を語源と曲解してスラブ人、
最後は、ユダヤ人である。

それでは、同盟国の日本人はどこ?

日本人は、同盟国だから、もう片方の第二人類の筆頭。
そして、途中にピグミー族といったアフリカ系の民族が並び、
最後は、類人猿である。

つまり、日本人は猿の筆頭だったのである。


フランスのパリで生活していたときは
ちょっと違う経験をした。

フランス人から何度も道をきかれたのである。

日本であれば、街を歩いている外国人に
道を尋ねられることはあっても、
道を尋ねることはない。

そのフランス人らは、肌の色で判断しているのではなく、
現地の人のにおいがするかどうかで、
道をきく相手を選んでいたのである。

パリなどの街にはいろんな人種がいる。
そんな環境で育てば、人種への偏見は
そもそも生まれないのかもしれない。

そいえば、当時、モンゴルで白人を見かけたのは、
いっしょにいたOECD職員だけだった。
ベトナムでは、白人は観光客くらいしか見当たらなかった。
一方、ポーランドでは、有色人種は、日本人観光客と
ホテルのクロークにいたアフリカ系の方しか見かけなかった。
フランスでも、田舎のほうにいくと、私は珍しがられた。

もっとも、ワルシャワのプラガ地区というところには、
旧東ドイツに出稼ぎに来たものの、
同国の入管行政が厳しくなってから、
ポーランドに不法に入国したベトナム人などが
たくさんいるらしい。
だから、私が、ポーランドの若者に囲まれたのも、
そうしたベトナム人らと間違われたからかもしれない。



私が、肌の色の違う人と会話をすることに少しでも抵抗がなくなったのは
英会話学校に通ってからである。

今の日本の子どもたちは、小さいころから英会話教室に通い、
小学校でもネイティブの先生と接する機会があるという。


今の日本の子どもたちには、われわれ大人より
うまく世界の人たちとわたりあえるようになってほしいし、
できるものと信じている。


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