両親の思い出 | 日記
2013.01.17(Thu):両親の思い出
十年以上も前のことである。

それは、弟の結婚式・披露宴が終わって
自宅に戻ってきたときだった。

昨日、弟が最後に自宅で食事をしていた椅子に
母がこしかけ、おもむろに口を開いた。

「肺に腫瘍があるみたい。」

多分、聞いたのはこれだけだった。
その時、
すでに杖をつかなければ歩けなくなっていた父が
そばで聞いていたのか、
今となっては思い出せない。

私は、そのころ、札幌国税局で、
税金を払ってくれない滞納者から
税金を取りたてる仕事をしていた。

そして、弟の結婚式があるということで、
東京に一時戻って来ていた。

札幌はもう、ガンガンに暖房をかけないと
生活できないくらい寒かった。
しかし、東京は、
夏の暑さがまだわずかに残っている気配さえ感じられた。


人間、こういうとき都合のいいようにかってに解釈するのだろうか…
このとき、心底、その腫瘍は何でもない、と思っていた。

父も胃ガンで摘出手術を受け、
数か月前に病院前で転び、
足を骨折したことがきっかけで
すでに体が不自由な状態。
その上、母までが…
そんなわけがない。

本当にそう信じ切っていた。


だから、札幌に戻ると、その母のことばを忘れていた。

ただ、一回だけ、母が実はガンだ、という夢を見て、
心臓をバクバクさせながら目を覚まし、
ホッとしたことがあった。

でも、その後も、母のあのことばを思い出すことはなかった。


年末、さすがに東京も寒くなっていたが、
札幌とは寒さの質が違っていた。
雪が積もっていないのも大きな違い。
東京ってこんなに歩きやすかったけ…


母の腫瘍のことについて
主治医の先生から、私一人で聞くことになった。
この期に及んでも楽観視していた私は、
待たされている間さえ、
どこかにのんきに電話をしていた記憶がある。

そして、ついに主治医の先生がいらっしゃる部屋へ。

まず、肺に腫瘍があることを見つけたきっかけから話が始まった。

体の悪かった母は、定期的に病院に通っていた。

そして、ある日、主治医の先生が母に
『久しぶりに胸のレントゲンでも撮ってみましょうか?』
といって、レントゲンを撮ってみたら…
ということであった。

胸のレントゲンも定期的には撮っていたようだが、
ちょうどタイミングが悪かったらしい。
その前に撮ったときは、おそらくレントゲンに腫瘍の影が映るかどうか
微妙な時期だったらしい。

そして、次に、ガンの進行段階として、
Ⅰ期~IV期があるという説明を受ける。

  どうせ、ガンじゃないんだから、さっさと説明してくれ!

本気でそう思っていた。

それから、母の肺から細胞を採取したことの説明をしてくださった。

この肺から細胞を採取する作業は、本人にはえらく辛いことらしい。
父もこの数年後、同様の検査を受けることになるのだが、
二度とごめんだ、というようなことを言っていた。

ガンがどれだけ進行しているのか、という判断は、
科学的・化学的方法かなんかを用いて行うのかと思いきや、
実は、顕微鏡でみた医師らの眼で行うらしい。
細胞の顔というか表情をみる、という。

そして、母の肺から採取した細胞の表情を顕微鏡で覗いてみると、
いい表情をしていると。
つまり、良性であると。

  だから、言わんこっちゃない!

それでも、主治医の先生は続けた

『私は、お母様にもう一度だけ細胞を採らせてください、
 とお願いしました。
 そして、もう一度、細胞を採りました。
 お母様は本当によく耐えてくださったと思います。』

肺の細胞を採取されるというのは、
それだけ本当に辛いことらしい。

『そしたら、ステージ・フォーでした。』

それでも、手遅れではない、
命は大丈夫なはず、
そう、思っていた。

『お父様もいっしょにおられまして、
 お二人とも手術を希望されていましたが、
 場所が悪いということで…』

『それから…
 ガンは既に背骨にまで転移してまして…
 おそらく、一年はもたないと思います。』

生まれて初めてヒザがガクガク震えた。

前にも後にも、ヒザが震えるという経験はこのときだけだ。
ヒザは本当に震える。
そして、止まらない。

『ここでは骨のレントゲンは撮れませんので、
 うまく説明して浦安の病院まで行っていただいて
 撮っていただいたのが、これです。』

といって、背骨のレントゲン写真を見せてもらった。
たしかに、黒い部分があったような気がしたが、
もう、頭の中は、パニクッテいた。


そもそも、肺の腫瘍の話を主治医からうかがうという時点で
覚悟はしなければならなかったはず。

そもそも、腫瘍の影がレントゲンで映っているというのは、
それだけガンが進行しているということ。

そんなことにも気がつかないほど、
母のガンのことは信じられないでいた。


部位が悪くて手術ができないというのも嘘で、
手遅れだったということである。

『転移しているということは、ご本人は言っていません。
 弟さんのご判断で…』

少しだけ、冷静になれた。

『手術以外の治療法には、抗がん剤治療と放射線治療とがあります。
 抗がん剤治療でも注射でする方法もありまして、
 お母様はお父様のお世話をしなければならないということで、
 注射による方法をご希望されていましたが、
 やはり、入院していただかないと…』

主治医の先生も、
私が札幌に勤めており、弟も電車の運転をしており、
母親以外に父につきっきりで面倒を見る者がいないということは
把握してくださっていた。

この時、今のような介護保険制度は始まっていなかった。


帰宅すると、母から、
「お医者さんから、聞いた?」
ときかれ、
「うん、だいぶ待たされたけど…」
と返事した。

時間がかかった理由を言っておかないと、
転移のことを気づかれると思った。


このころ、父の介護をしていたのは、母であった。
トイレの近い父は、真夜中に何度も母を起こす。
母の助けをかりないと、トイレに行けなかったからだ。

年末年始、別の部屋で眠っていた私もその度に目を覚ます。
ただ、そこは夫婦だけの世界、
自分はその子どものはずだったが、入れなかった。


正月休み明け、私は札幌に戻り、
ガンに効くという漢方薬を入手して東京に配送。
一か月あたり十数万円かかった。
しかも、当初は偽物をつかまされ、
追加注文をしようと連絡を試みるも不通。
雪道を歩いて輸入会社の住所に行ってみると、既に引き払った後。
最初の注文時、わざわざ札幌の宿舎まで来てもらったので、
つい、信じてしまった。

その後、本物を入手できるようになったが…
もちろん、偽物をつかまされていたことや値段のことは
母には内緒にしていた。

偽物にしても、本物にしても、
その漢方薬はえらく苦くてまずかったらしい。
一本当たり数十ml程度だったが、
飲むのが辛いくらいだったらしい。


二月になって、父が入院したという知らせを受けた。
父もいつ入院してもおかしくない病状だったが、
ベッドが空いたということ、
そして、何よりも
父の世話をしていた母にも
抗がん剤治療を受けるための入院が必要だったからである。

なお、後日談であるが、その十数年後、
私が選挙に落選して、時間もできたので部屋の掃除をしていると、
まさに、このときの入院時に病院に支払った保証金の受領書が出てきた。
そこには、母が書いたと思われる父の名があった。
その受領書をとっておきたい気持ちもあったが、
一円でもおしかった私は、病院に行って、その保証金を返金してもらった。
そのとき、今度は私が、受領書の裏面に
亡くなったはずの父の名を領収人として書いた。
両親からの贈り物だと、自分に言い聞かせながら。

さて、抗がん剤治療のことだが、
頭の毛が抜けるのはもちろん、
おう吐するなど本当に苦しいことらしい。

だから、その人のガンに効く抗がん剤選びが
非常に重要になってくる。

しかし、最初の治療時に投与した抗がん剤が
効かなかった。
だから、しばらく期間をおいて二度目の抗がん剤治療。
二回目は効いたらしい。
ただ、ガンは小さくなったものの、消えはしなかった。

本当に抗がん剤治療は辛いらしく、
この後、母は、
二度とあんな思いまでして治療は受けたくない
といって、抗がん剤治療を受けることはなかった。

私が、二月に東京に戻ると、
母はわざわざ一時退院をして
私のために手料理をふるまってくれた。
たしか、一回目の抗がん剤治療の後だったと思う。


その後、抗がん剤治療を終えた母は退院し、
放射線治療のため、
電車で30分ほどかかる病院に通い始めていた。

その後父は入退院を繰り返し、
だんだん元気がなくなっていくような気がした。


そして、七月、国税当局の異動期となった。
私は、両親の事情で在京勤務にしてもらうよう、
人事にお願いした。
そして、さいたま市にある
関東信越国税局調査査察部への異動となった。


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