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両親の思い出 | 日記
2013.03.21(Thu):両親の思い出
自宅近くの桜は三分咲きであったが、
ここでは、まだ一部咲きだった。

どんよりした雲の下、
そのソメイヨシノの木の上を
私が、かつて10,000mで35分台の自己ベストを出した
法政大学の陸上競技用のトラックに通ずる陸橋が走っている。
(1/3付のブログご参照。)

バスの車窓から見上げると、
そんな光景がみえてきた。
何度もみるはずなのに、いつも懐かしい。


ご先祖さまが眠る墓地に行くには、バスを降りて、
さらに、歩くと長いトンネルを抜ける必要があった。

トンネルを抜けると、そこは緑が一面が広がるはずである。
春になれば。

その墓地に着いて、いつものようにお寺さんにご挨拶。

「こんにちは。
 ここで、お世話になっています猪野です。」

『あっ、猪野さん。
 選挙お疲れさまでした。』

「ありがとうございます。
 落ちちゃいましたけど。」

この前の衆院選のときに、わざわざお寺さんまで行って、
自分を売り込みにいったわけではない。
そもそも選挙区ではない。

たまたま、父の一回忌が選挙期間中にあり、
お寺さんまで、騒がしてしまったということである。
(昨年12/5付のブログご参照。)


この墓地では、両親含め総勢15名のご先祖さまが眠っている。
ただ、お参りするお墓は二つ。

一つは、母方の祖父母とおじが眠るお墓。
だから、猪野家の墓ではない。
もう一つは、猪野家の墓である。

ただ、同じ墓地にあり、
と、いうか、母が亡くなったときに
どこに猪野家の墓を建てたらいいか皆目見当がつかなかったので、
この墓地に決めたということである。


祖父母らのお墓のほうがお寺の本堂に近いので、
いつもこちらのほうからお参り。

母方のご親戚の方々はご高齢というとこもあり、
こちらのお墓は汚れていることが多い。

この前は選挙期間中にお寺さんに来たものだから、
というか、早く選挙活動に戻れと急かされたものだから、
祖父母のお墓までお参りしている時間がなかった。

したがって、昨年の秋分の日以来、
半年ぶりのお参りということになる。
だから、汚れはひどかった。

ただ、数年に一度、
そのご親戚の方が業者さんに依頼しているのか、
異様にきれいになっていることがある。

それ以外のときは、猪野家の墓より丁寧にブラシでこする。
だから、お墓にいる時間も、こちらの方が長い。

祖父母がくすぐったいと言っている気がいつもする。
祖父母から受けたご恩は、
こんなことくらいで返せないことは分かってはいても、
せめて、と想いながらブラシでこする。


せっかちなおじいちゃんとの思い出は、
小さいときに明治神宮に初もうでに行ったときのが鮮明に残っている。

初もうで客でごった返しているから、
緊急用の通路を確保するためのロープが脇に張ってある。

そして、おじいちゃんに手を引っ張られながら、
その狭い緊急用の砂利道をスイスイと行く。

長い列を待つ周りの初もうで客も、
じい様と幼子という組み合わせなので、
何もいわずに、むしろ見守ってくれる。

私はというと、

「なんで、みんなもココを通らないんだろう?」

と、あたたかいみなさんの神経を逆なでするようなことを思っていた。


そのあと、もうすぐ撤去されるといわれている
原宿駅前の横断歩道橋の足もとにあるそば屋さんに入った。

初もうで客で混んでいるので、
注文したかつ丼がなかんかこない。

『ねーちゃん、ねーちゃん、かつ丼まだか。』

なぜか、この場面だけ覚えている。
その、”ねーちゃん”も、
今はお孫さんがいらっしゃるにちがいない。


そんな、おじいちゃんのおかげで、
今の私がある。

東京大空襲のときに、防空壕に避難していたらしいが、
なぜか、ふとここにいては危ないと感じたらしい。

そして、おじいちゃんは、
その防空壕でのん気に歌を唄っていた私の母の手を引っ張って、
家族ともどもその防空壕を出たらしい。

そして、直後ではないんだろうけど、その後、
その防空壕はB29の爆撃にあったらしい。

その後、おじいちゃんは、はたまた何かを感じたのか、
みんな、はぐれたら、国会議事堂に集まろうといったらしい。
国会議事堂なら、B29も爆弾を落とさないだろうと判断して。

で、実際にはぐれたらしいが、
国会議事堂前で再会したのではなく、
偶然に、別の場所で再会できたらしい。

もちろん、今の私があるのは、
このおじいちゃんだけのおかげではない。
そのまた前のご先祖さまたちが各々、
自分の子どもらや孫を大事に育ててきたからこそ。

そして、母方のご先祖さまだけでなく、父方のご先祖さまも。

学生時代に、ご先祖さまは大切にしろ、
とは聞かされていたが、本当の意味が理解できなかった。
でも、今は分かる。


ところで、そんな死者・行方不明者10万人以上、
被災者100万人以上も出した東京大空襲、
そして、広島、長崎への原爆投下等々、
それでも、アメリカに敵意を抱く日本人は少ない。

かたや、中国や朝鮮半島の人々の日本に対する感情は、
決していいものではなく、未来永劫変わりそうもない。
(その理由についての私見は、1/5付のブログご参照。)


話がそれてしまったが、
そんなおじいちゃんを見た最後の姿は、
私がこれからパリに赴任すると挨拶にいったとき、
帰宅しようと立ちあがった瞬間に見えた
見事に光っている頭だった。

私が物心ついたときから、この頭だった。

ウソのように聞こえるかもしれないが、
これが最後の姿かもしれないなー、と感じた。


その時のおばあちゃんはというと、
私のために、いつものように、ご近所の和菓子屋さんから
甘い物を買ってきてくれた。

もう、私は、二十代後半だったのに。
もう、おばあちゃんは、腰が曲がっていて、
近くに出かけるだけでもしんどかったはずなのに。

私が来たら、甘いものを買ってきてくれるというのは、
私が幼児のときから続いていた。
いつも甘いものだけど、同じものは買ってこない。

でも、その時は、もう耳が聞こえない状態で、
おばあちゃんとの会話はなかった。
ただ、私がこれから外国に行ってしまうというのは、
分かってくれたらしい。


こうして私や両親が来て、帰るときは、いつも決まって
おばあちゃんが見送ってくれた。

普通は、姿が見えなくなるまで見送るということだが、
おばあちゃんの場合は、私らが見えなくなると、
さらに、見えなくなるところまで来て、見送ってくれた。

昔の私は、小さいながら、正直、
しつこいなー、と思ったこともあった。
が、その時のおばあちゃんは、もう元気がなく、
見送ることさえできない状態だった。

人間、勝手なもので、それはそれで寂しかった。


おばあちゃんとの思い出は、
私が眠ったらいつも毛布をかけてくれたこと、
私が見事に蚊をつぶしたのに、
隆にできるはずがないと信じてくれなかったこと、

そして、小さいとき、
テンションが高くなった私は、
おばあちゃんのところに自分一人で泊まるといい、
それならと、実際、両親が出ていくやいなや、
私は、寂しくなって、泣き叫び、
あわてて、両親を呼び戻してくれたとか、いろいろある。


母方の祖父母らのお墓参りがすみ、
次は、猪野家の墓へ。

”安政の眠りから覚めたご先祖さま”とは、
父方のほうのご先祖さまのほうのお話しなのだが、
長くなったので、つづきは後日に。



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