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両親の思い出 | 日記
2013.01.21(Mon):両親の思い出
母は、今にでも目を覚ましそうな表情をしていて、
こわいくらいだった。

そうなってほしいという気持ちが
そう見えさせたのかもしれないが、
本当にそうだった。


私が赤ちゃんのとき、
オムツを替えてもらった直後、
気持ちよくなったのか、よくウンチをして
母を困らせたらしい。

まだ、幼稚園に通う前のある日の冬、
毛糸帽子をかぶるの忘れ、
どうしてもかぶりたいと
八百屋の前でだだをこねる私を
母は叱ってくれた。

それまで母が私に服を着せてくれていたのが、
ある日、自分で着なさい、という。
そして、またもや泣きじゃくる私を
母は困惑した表情で見守る。

  ここは、着せるわけにはいかない。

そんな母の顔を今でも覚えている。

補助輪なしの自転車がなかなか乗れず、
泣きながら練習する私に
母はずっと付き添ってくれた。

第二大島小学校二年生のとき、
公園で遊んでいて足の骨を折ってしまい
これまた泣きじゃくる私を
母はあわてて抱えて病院に運んでくれた。

第四大島小学校の卒業式のとき、
私とのツーショットを撮ってもらおうと
母は当時の同級生にお願いしてくれた。
でも、そのお願いする声が母の声とは気づかず、
私はそのまま教室に入ってしまった。
だから、母とのツーショット写真はない。
今でも非常に悔やまれる。

第二大島中学時代、
地元の ”大島クラブ”という野球チームに入る。
しかし、補欠だから試合に出られない。
だから、ユニホームはいつもきれい。
それでも、母は何もいわずに洗濯をしてくれた。

都立城東高校への入学が決まり、
母は体調が悪いのにいっしょに説明会に来てくれた。
そして、このときから、
毎朝、母は革靴を磨いてくれた。

上智大学に入って陸上を始めてからは
ランニングシャツやパンツを洗ってくれた。

トイレを磨いてくれた母、
ミシンをかけてくれた母
アイロンをかけてくれた母
お米を洗ってくれた母

私のために最後につくってくれた料理は、
焼き魚定食。
私のために、一体、何回料理をつくってくれたのだろうか?

献立を考えるだけでも大変だったはず。
それなのに、母が夕食の準備をしてくれた後に、
今晩は夕食は要らないと、平気で連絡していた私。


そんなことが一瞬にして
走馬灯のようによみがえってくる。

私は親不孝だった。
母より先に逝かなかったことだけを除いて。

だから、今は、その親不孝を払拭すべく、
毎晩、何十年前のその日に当たる母の姿を頭に思い描きながら、
小さな仏壇の前で手を合わせるようにしている。


今でも街中で親子連れをみるたびに、
自分もこうやって母にかわいがられたんだろうな、
と、ほほえましく思う。
自分は独身なので、もちろん子どもはいない。
自分で実際に子どもを育ててはじめて、
親に育ててもらったことのありがたみが分かるそうだが、
私も分かってきたような気がする。




気がつくと、病室には誰もいなかった。
そういえば、同室にいらっしゃっるはずの
もう一人の患者さんの姿がみつからない。
母が危篤になってから、別の部屋に移されたのだろうか。


本当は、泣きじゃくりたかった。

しかし、葬儀屋さんが、病室の外から私を見守ってくれている。
気を使って外で待機してくださっているのだろうが、
本当に気を使ってくださるのであれば、
母と二人きりにしてほしかった。

以来、母と二人きりになることは永遠になかった。



父は、相変わらず入院したままで、
自分一人で起き上がることもできない。
声をかけても返事をしてくれない。
ますます元気がなくなった感じだ。

だから、父が名目上の喪主で、
私が事実上の喪主となった。

葬儀中、私が病院から父を車いすで連れてくると、
ご親族をはじめとする参列者の方々が
すすり泣いてくださる。
それでも、父は短時間しか母のそばにいてあげられなかった。

  もう、お別れはすんでいるから、いいよ。

車いすの父がそう語っていたような気がした。



葬儀もひと段落し、落ち着いた後も、
父へのお見舞いは続く。
お見舞いといっても本当に反応がなく、
母の死に直面したこともあり、
本当にボケてしまったのか…


父のいる病室に向かう途中、
母の主治医だった医師に遭遇する。
私は「こんにちは」とだけ言っておいた。
なぜなら、
その医師が、若く可愛らしい女性ソーシャルワーカーを
くどいているところだったからだ。
そう、そのソーシャルワーカーさんも、
数週間前、父の転院のことで
母と相談した、あの方だったのだ。

その医師は、その女性をくどくのに一生懸命で、
そばを通る私にまったく気がつかない。
だから「こんにちは」の一言にもまったく無反応。
ソーシャルワーカーさんのほうも、くどかれて
明らかに迷惑そうな表情をしているが、
私の存在にさえ気がつかない。

  こんな人たちにお世話になっていたのか…

切なくなってきた。

母が入院した際、私は、この医師から、
危篤状態になったら人工呼吸器をつけるか、
問われていた。

経験のある方もおられるかと思うが、
答えは、No と言わせることになっている。
金銭的なことはもちろん、何よりも
人工呼吸器をはずすとき、
それは命を断つことを意味するので、
親族がつらい思いをするからである。

今でこそ、私もこのように理解できるが、
当時の私は、初めてきく話でよく理解できなかった。
その医師には、
とにかく母が苦しまないようにお願いします、といったが、
私のそのお願いから、No という答えを引き出すのに窮し、
きちんと説明してくれなかった。

結局、その前の母の主治医の先生にきちんと説明してもらう始末。


さらに、こんなこともあった。
私が入院中の母を見舞い、話しこんでいたとき、
この新しいほうの主治医は、病室の外から私を手招きする。

この主治医が病室の外で数分待っていたのは気がついていた。
そして、私と二人きりで話したがっているのも分かっていたし、
その内容も母のガンの進行具合ということも察しがついていた。

だからこそ、さっさと母の視界から消え去ってほしかった。
母が不安がるから。
それなのに、この主治医はそんなことも理解できず、
自分の都合のことばかり気にして、
しびれを切らして、私を手招きしたのである。

案の定、ガンの進行度の話であった。
そして、案の定、病室に戻ると、母にきかれた。

「何の話だったの?」

ガンの転移のことは母に隠していたので、こう答えてしまった。

「いろいろな薬を飲んでいるから、
 肝臓がちょっとはれ始めているんだって。」

しかし、これが数日後、悲劇を生むことになった。

亡くなる前日、背骨に転移していたガンが原因で
母は、腰に激痛がはしる、と訴えていたらしい。
もちろん、母は激痛の原因を知らなかったはずなのだが…

主治医は、痛みを和らげる薬の投与を提案したらしいが、
母は、薬の投与を拒んだという。
おそらく、数日前の私のことばを信用してのことであろう。
たしかに、その日、私がお見舞いに行ったとき、
母は、腰に多量の湿布を貼って眠っていた。


医師に一番求められるのは、もちろん腕である。ただ、
患者やその家族らに対する説明もきちんとできるような、
そして、患者やその家族らを思いやることができるような、
そんな教育も医学部ではしてもらいたいものである。

あと、気になるのが、看護師さんら職員の方々。
医師のことを、患者やその家族ら外部の者との会話の中でも、
先生とよぶ。

通常の社会では、外部の者との会話の中では、
社内の上司の名前は呼び捨てにする。
あの政治の世界でさえ、
秘書は、外の人との会話の中では、
お仕いする政治家を呼び捨てにする。
政治家本人と話すときでさえ代議士といい、
先生とはいわない。

医療社会は別なのかもしれないが、
ふつうの社会で暮らしていると、
やはり気になってしまうのは、私だけか…


数か月前、
父もガンが再発し、余命はあと数か月かもしれない、
そう言われたが、どうやらガンではなかったらしい。

実は、その後十年間、父はいろいろな病状で、いろいろな病院で
入退院を繰り返すことになるのだが、
そのたびに同じようなことを言われる。

結局、父が亡くなるまで
ガンは再発することはなかったのだが、
特に、肺に悪性腫瘍とまぎらわしい影が
映っていたようである。


そして、いよいよ父が療養型の病院に転院することが決まった。

これから、十年間以上、私の生活が一変しようとは、
このときは予想だにしなかった。



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