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両親の思い出 | 日記
2013.01.29(Tue):両親の思い出
病室に入ると、
どう素人目に見てもすでに魂が抜けていると分かるのに、
懸命の心臓マッサージを受けている父の姿があった。

また、間にあわなかった。
やはり、親不孝だったようだ。

「もう、いいです。」

との声を発したときが、人工的な死亡時刻となった。

万が一のときも心臓マッサージだけは止めないでくれ
とお願いしたことを後悔した。
私が到着したときもそうだったが、
看護師さんらは一時間以上も、もちろん交代でだが、
一生懸命に心臓マッサージをしてくださった。

父は、下痢をしたのが分かり、オムツを交換してもらうため、
ナースコールを押したらしい。
そして、オムツ交換をしてもらっている間にも
みるみる様態が悪化していき、
ついには心臓が止まったということだ。

つまり、その下痢は内臓の機能停止への第一歩だった。

母のときと異なり、親族にも看取られず、
心臓マッサージを受けながら
父はどういう思いで他界したのであろうか?
転院したその日に、見ず知らずの土地で…


父が亡くなった翌朝、
ガタン
と部屋のタンスの音がした。
父が戻ってきたようだった。
今、現在も、部屋には
父と母がいるような気がする。

選挙に落ちて無職になってしまったある日、
そのタンスの観音扉が開いていた。
自宅の鍵は、今開けたばかりだから
空き巣が入ったわけではない。

駅三つ離れたところに奥さんと住んでいる弟も、
お線香をあげに、時おりこの部屋に来るので、
弟に開けた覚えがあるかときいても、知らないという。

ある夜、弟が急に部屋に飛び込んできて、いう。

「もしかして、お金があるかもしれない!」

タンスの中に十数万円あった。
父は生前へそくりをしている話をしていたらしい。
弟も、地下鉄に乗っていて、ふと思い出したという。

そのタンスは父が寝ていたベッドの真横にあるのだが、
そういえば、父は、生前、
たまにそのタンスの中をのぞきこんでいた。
きっと、母の形見でも見ているのかと思っていたが…

どうやら、私が鈍感だったがために、
弟に足労をかけてしまったようである。



父が亡くなった日の昼、
転院の手続きもすませ、私が病室から出ようとした際、

「入れ歯を持ってきてくれ」

と父にお願いされていた。
そこで、持ってきた入れ歯を父の口に入れる。

母の場合と異なり、なんとも素っ気ない最期のことば。


そういえば、私が産まれた時も素っ気なかったらしい。
父は、私が産まれた瞬間、パチンコをしていた。
玉が出ていたので止められなかったという。
おそらく、病院にはいられなかったからなのであろうが…


これも母の場合と異なり、数十分して葬儀屋さんが登場、
というわけではなかった。
この日に来たばかりの病院は、千葉県なので、
東京の葬儀屋さんとは提携していないという。

そこで、母のときにお世話になった葬儀屋さんに連絡し、
遺体を運んでもらった。



父とは、正直、あまりいい思い出がない。

ふつうの子は、正月を楽しみに待つ。
しかし、私は、小学生の間は、
正月がくるのが嫌で嫌でたまらなかった。

父は、生まれながらの芸術家で、
書道、絵画等の美術、詩吟などに長けていた。
職業は地方公務員だったが。

だから、学校の宿題だった書き初めには、
非常にうるさかった。
まず、墨汁だが、市販ものは許されず、
硯からすらされた。
だから、他の同級生の書き初めと比べ、
私の字は決まって薄かった。

泣き虫の私は、泣きながら
何時間もかけて書いていた。
その中から父の眼に適ったものを学校に提出したのだが、
嫌々書いたものだから、躍動感のない字だったとは思う。


私は、小学生なのに、プロレスを好んで見るようになっていた。
それは、テレビが一家に一台の時代だったからだ。

当時の学校では、”太陽にほえろ”の話でもちきりだった。
特に、松田優作扮するジーパン刑事が
『なんじゃ、こりゃ』
という名セリフを残して殉職したときは。

だから、私も ”太陽にほえろ”を見たかったので、
あのテーマ音楽とともに出てくる夕陽を見ていると、父が

「こんなもの、子どもがみるもんじゃない」

といわれ、
アントニオ猪木が死闘を繰り広げる新日本プロレス、
そこにチャンネルを変えられたからである。
金曜夜8時の出来事であった。


母が亡くなって、父と二人暮らしになってからの
思い出のほうがまともなようである。

父と亀戸天神に行った帰り道、
買ったばかりの女性用ブルゾンを早速着ていた父が
突然の強風におあられ、思わず私の肩をつかむ。

父のほうから私を頼った唯一の瞬間だった。



お通夜と告別式は東京で行ったが、
父の生まれ故郷は、
愛媛県南宇和郡御荘町(現愛南町)なので、
百箇日法要は、その故郷で行うことにした。
その日は、あの東日本大震災からちょうど一年後の
3月11日だった。

父が亡くなって年が明けた1月に地元のお寺さんに連絡し、
父と幼なじみで、父のいとこに当たる親戚の方にも連絡した。


その場所は、宇和島駅からでも
車でさらに一時間ほどかかる場所。
電車やバスで行くには非常に不便だった。
そこで、私は、
二十年ほど運転していないペーパードライバーだったが、
松山でレンタカーを借りて、宇和島へ。

お寺は、海辺近くの見晴らしのいい場所にあった。
法要は午後2時からだったが、道に迷ったこともあり、
5分ほど前に到着。

  まずい、ご親戚の方々を待たせてしまったか…

しかし、そこには、ご住職さんしかいなかった。

そして、ご住職さんがおもむろにメモを読み始めた。

ご親戚の方々から伝言が二つあるという。
一つは、本日は、友引にあたるので、
法要の参列を控えさせていただきます、と。

  そんなことは知らなかった。
  親戚の方にしても、特にお寺さんにしても、
  私が連絡したとき、なんで、
  その日が友引にあたることを教えてくなかったんだ…

もう一つは、東京にお墓を建てたのであれば、
ここにある猪野家(もっとも分家)先祖代々のお墓を
東京に移してくれという。
律儀な地元のご親戚の方々が、私の代わりに、時たま、
お参りをしてくださっていたという。

実は、十年以上前、母が亡くなった時、
お墓の知識がまるでなかった私は、
東京にも猪野家の墓をつくってしまったのである。
もっとも、分かっていたとしても、
宇和島にいくのは大変なので、東京に建てたとは思うが。


そこで、ご住職さんには、私一人しかいないガランとしたお堂で、
百箇日法要をとり行っていただいた。
その後、一年前の東日本大震災が起きた時刻になると、
お寺の鐘を鳴らして、私も合掌。
それから、お墓の性根を断つためのお経をあげていただいた。


その後は、1月に私が連絡した親戚のご家族の方が、
私のために、地元で獲れたばかりの魚の刺身料理を
ふるまってくださった。
人生の中でもっともおいしい刺身だった。

  亡くなった父が私に食べさせたかったのだろう。

と、その親戚のご家族の方もおっしゃった。



そういえば、父は、亡くなる数日前、こんなことをつぶやいていた。


「また、御荘で釣りがしたいな…」


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