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両親の思い出 | 日記
2013.01.31(Thu):両親の思い出
私には、人の命を救うまでの力はなかったが、
延ばす力はあったのか、
祖母は、私が到着しからも数日間、小康状態を保っていた。

私が到着したときに
心配そうに見守ってくださった親戚の方々も
三々五々帰宅される。
ただ、いつ逝ってもおかしくない状態であることには
変わりなかったので、
頻繁にこの施設には来てくださる。

私が到着したときにはいらっしゃらなかった親戚の方々も
来てくださるようになった。
全員ではないが、どなたが、父とはどういう関係に当たるのか、
というのが段々分かってきた。
お顔も識別できるようになってきた。

親戚の方々は、ご自宅が比較的近いので
家にずっといてもよさそうな感じだったが、
祖母のいる部屋にしょっちゅう来てくださる。

私はというと、ソファーの上で横になるといった程度だが、
施設に泊めていただいたりした。
お風呂は、親戚の家でお世話になっていた。

次第に、私も親戚の方々も、疲労の色が段々濃くなってきた。

いつしか、
いつ逝ってくれるのかしら、
という発言も、時おり聞こえるようになった。

職員の方が
『ご本人は、耳はしっかりしているので、』
と、注意する。


そういう私も疲労はピークに達していた。
今度こそは危ないと、
夜中にソファーの上で横になっていてもたたき起こされ、
祖母の横につくも、状態がまた落ち着く。
そんなことの繰返しであった。

施設に常駐している医師の診察も段々おざなりになり、
親戚からは苦情が出る始末。


私は、いったん東京のほうに戻ったほうがいいか悩んでいた。

職場では、祖母が危篤だといって行ったのに、
いったい、いつまで休んでいるんだ、
と、間違いなく思われている。

一方、こちらでは、
祖母が依然危ない状態であることには変わりなく、
親戚の方々も、自分らがこの部屋にいるのに、
一番近い親戚のお前がいなくなってどうする、
という、雰囲気であった。

まさに葛藤。

結局、いったん帰京することにした。

近くのバス停まで親戚の方が車で送ってくださった。

行ったり来たりで大変ですね、
という言葉をかけてくださった。

バスに乗って宇和島駅へ。
そして、そこから松山駅行の列車に乗る。
今度は自由席で。


八幡浜駅付近だったと思う。

人生初、車内放送で呼び出しを受ける。
電話がほしいと。

電話をすると、祖母が今度こそ危ないと。

慌てて、今来たばかりの道を戻る。

  あのおっしゃりかたからすると、今度こそだめだろう。
  多分、間に合わない。
  なんで、あの場にい続けなかったんだ…

そんな後悔した思いで戻った。

が、到着すると、私が数時間前に部屋を出たときと
なんら様子は変わっていなかった。
外が既に暗くなっていたことを除いて。

祖母ももちろん、まだ意識はあった。

  結局、最後までここにいろ、ということか…


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